このところ、日本の古くからの考え方という、無常について、インドで考えるため、鴨長明の『方丈記』(講談社学術文庫)を安良岡康作という研究者の解説で読んだ。
慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』という漢文の本を下敷きにしていて、それを超えていると言う。解説者が、鴨長明を絶賛しているのも頷ける美文だ。
確かに和漢混交文の、特に書き出しの張りのある文章は、読み応えがあるが、それにご本人が酔っている風に見えなくもない。
勿論、それでは自分でそういう文章が書けるかと言われれば、そう言う批判はあたらなくなると言えるが。
この無常観は、520年にインドからダルマ大師が、禅宗の教えとして洛陽にもたらし、随唐で発展して、南宋の時代に、栄西、道元によって日本に伝えられたものだから、元はインドであるが、お茶とともに日本特有の思想であるかのように大発展を遂げたという事であろう。
インド人とつき合っていると、何事も、融通無碍で、文字通り、「ゆく川の流れ」に万事をまかせているかのように、こだわりを感じさせないところがある。インド人には、本来、無常観が身に備わっているのかもしれない。
それにひきかえ、『方丈記』の無常観は、ことさらに、無常観を意識していて、かくあるべしと言いながら、最後にどんでん返しで、著者が無常観を頭でしか考えられなかった事を告白している。
解説者に言わせれば、これこそ正直で立派という事になっている。
道元は、人生の無常をはやく感得し、座禅によりそれを乗り越えろと、「無常迅速」「修證一如」という言葉で『正法眼蔵随聞記』の中で言っている。
しかし、それほど無常というものを、意識するほどの事でもないように思われる。自然に受け入れ、自然にやり過ごすしかないのではないか。
慶滋保胤(よししげのやすたね)の『池亭記(ちていき)』という漢文の本を下敷きにしていて、それを超えていると言う。解説者が、鴨長明を絶賛しているのも頷ける美文だ。
確かに和漢混交文の、特に書き出しの張りのある文章は、読み応えがあるが、それにご本人が酔っている風に見えなくもない。
勿論、それでは自分でそういう文章が書けるかと言われれば、そう言う批判はあたらなくなると言えるが。
この無常観は、520年にインドからダルマ大師が、禅宗の教えとして洛陽にもたらし、随唐で発展して、南宋の時代に、栄西、道元によって日本に伝えられたものだから、元はインドであるが、お茶とともに日本特有の思想であるかのように大発展を遂げたという事であろう。
インド人とつき合っていると、何事も、融通無碍で、文字通り、「ゆく川の流れ」に万事をまかせているかのように、こだわりを感じさせないところがある。インド人には、本来、無常観が身に備わっているのかもしれない。
それにひきかえ、『方丈記』の無常観は、ことさらに、無常観を意識していて、かくあるべしと言いながら、最後にどんでん返しで、著者が無常観を頭でしか考えられなかった事を告白している。
解説者に言わせれば、これこそ正直で立派という事になっている。
道元は、人生の無常をはやく感得し、座禅によりそれを乗り越えろと、「無常迅速」「修證一如」という言葉で『正法眼蔵随聞記』の中で言っている。
しかし、それほど無常というものを、意識するほどの事でもないように思われる。自然に受け入れ、自然にやり過ごすしかないのではないか。