芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

丸木位里『広島のピカ』のヒンディー語訳

2011年12月15日 | Weblog
昨日、試験の成績が一番良かった日本語科の学生から、電話がかかって来て、菊池さんの講義の宣伝が張り出されていないから、これからでも張り出させるかというので、事務所に催促してもらった。
一昨日、宣伝を頼んで、昨日張り出されていないので、事務方の女性に催促すると、文章にして出すように言われて提出してあったのに、張り出されていない。すべからく、この調子だ。
日本語科の学生には、言っておいたのだが、半数が田舎に帰っているため講義に出席したのは、5人であった。
菊池さんがヒンディー語訳した丸木位里『ひろしまのピカ』を中心に、福島、長崎の放射能の話をしてもらった。まだ日本語を理解するのが難しいので、ヒンディー語で話してもらった。

デリーから大学にご来客

2011年12月14日 | Weblog
ラーイ学長からネットで見つけたからと言われて、菊池さんというネルー大学で博士課程を修了した人を呼ぶことになった。初めてのことで、どのような手続きをするかも分からないが、ともかく、飛行機で来てもらい、その交通費などは、後払いにすればいいのではないか。まだ小学生くらいのお子さんがいるということだから、おいて出かけてくるのも大変であろう。
ただ呼ぶようにと言われて、何の目的かも分からないので、折角だから、期末試験のあとの初めての授業に話しをしてもらうことにした。広島や福島のことをヒンディー語に訳しておられるようだから、その関連で話しをしてもらうことにした。
昨年9月に私自身が呼ばれてきた時も、なんで呼ばれたのか分からず、なにか講演でもすればいいのかと思ってきたが、夜、ゲストハウスで呑み会をして、そこで、日本語科を開くがどうかと言われ、こんな暑いところで一年中いるのは無理だとお断りしたが、結局、放射能汚染で、また呼ばれたので、今年、来ることになった。
今日、学長がお呼びしているのも、あるいはそう言う期待でお呼びしているのかもしれない。しかし、彼女のご主人はデリーで働いているようだから、彼女がここで働くのは無理ではあるまいか。

中国から送られた麺のご相伴にあずかる

2011年12月13日 | Weblog
蒲白路さんのところに中国のお宅から荷物が届いたと、郵便部から蒲白路ちゃんに伝えるように金曜日に頼まれた。
かなり大きな荷物で、今日、その中にあった、インスタント・ラーメンとタンメンをご馳走になった。インドの麺は、めためたでまずいが、中国から送って来た麺はさすが、本場だけあってうまかった。久しぶりで、腹一杯に食べた。ここにヒンディー語を学びにきている中国の子達は、皆,裕福な家の子達と見え、贅沢な料理を食べている。食堂で食べれば、只なのに、わざわざ、米を買って自室で炊いて食べている。しばしばお相伴にあずかっている。今回は、夕方食事前に持って来てくれたインスタント・ラーメンを食べ、食堂で卵カレーを食べたあと、自室に持って来てくれた本格的なタンメンを食した。

老人ホームと住所変更

2011年12月12日 | Weblog
午後から、トヨマの佐藤元大工さんに電話した。
明12日に、母の点滴を太いCVとかいうのに、替える手術をすることになっていて、それをすると、老人ホームにいられなくなるので、後期健康保険証などのカードを老人ホームから返却されたのを東京に持って来てしまったのだが、佐藤元大工さんに送って管理を頼んだのだった。そのことを電話であらためて、インドに来てから、お願いしたのだ。
老人ホームに行ってくれて、老人ホームから母の住所変更をするようにいわれたそうだが、親戚でないので、委任状など面倒そうだから、それはしていないと言う。
特別擁護老人ホームに入ったとき、母の現住所をそこに変更しなければならなかった。しかし、CVという点滴をするようになると、病院付属の療養所に入らなければならない。住所変更が、そこになるのか、それとも元の自宅になるのか分からないので、どちらにするかいずれ聞かなければならない。そもそもが、現住所を特別擁護老人ホームに移さなければならない理由も分からない。

皆既月食

2011年12月11日 | Weblog
昨夕、月を見たら、ほとんど欠けて三日月のように見えたが、残りの部分が赤みを帯びている。月食だ。
宿舎の庭に椅子を出して、しばらく座って見ていると、皆既月食になった。久しぶりで見る皆既月食だ。右上が少し明るく、食事をしてから見ると、右下から月が少しずつ出て来ていた。日食に比べると、相当時間がかかる。
数十年前、小牧さん達と母も伴って、インドに皆既日食を見に来たのが思い出された。あの時は、確か、この近くのアジャンタ、エローラを見てから、ハイデラバードのさらに南に行ってみたと思う。
あたりが薄暗くなると、鳥達が急にねぐらに帰り始めた。ゴールドリングから皆既日食になり、何か神秘的な経験をした。たった数分の事象だが、小牧さん達が、日食を追いかけて世界中を歩き回るのがよくわかった。

筆記試験の採点をする

2011年12月10日 | Weblog
筆記試験の答案をまだ採点されていなかった。私が帰ってくるのを待っていたと言う。では、あの模範解答はなんだったのだろう。それを見て採点出来ると言っていた試験科の人達は、学長にいわれて、私に採点させることにしたのかもしれない。学長に会って、母のことを聞かれたので、少し持ち直したと応えたが、試験時間が1時間は短いと学生から苦情が出ているともいわれ、それには、筆記試験は答えを出していて、それを選択するだけだから、時間は充分で、実際、90点以上が二人、80点台もいて、出来ない人でも、筆記試験と口頭試験とを併せれば、皆50%以上になり合格するから問題ないと応えたら、納得していた。ここの学生は結構学長に直訴するようだ。一人の学生は、登米の自宅まで電話して、応え方を間違った、数字で応えるべきを、ヒンディーのナーガリー文字のあいうえおで応えたというのだ。私は、試験科の人が採点しているだろうから、もう見ないと言っておいたのだが、学長に私に見させるよう訴えたのかもしれない。学生と言っても、マスコミ科部長夫人であるから、夫を通して学長を動かしたのかもしれない。午後三時過ぎに行って一人増えて9人になった受験生の答案を採点した。1時間半ほどで終わった。
増えた一人の学生の口頭試験は、学生に連絡して、追試験を受けさせる形になるようだ。

ナーグプルのサンタラー蜜柑

2011年12月09日 | Weblog
ナーグプル空港から、大学宿舎まで行く途中で、道路脇でミカンを売っているのを見て、運転手が、買うかと車を停めてくれた。
ナーグプルの有名な、サンタラー蜜柑だ。折角だから、180個500ルピー分(約900円)買い、おまけに貰った10数個を運転手にあげた。私は、36個の入った袋を上げようと思ったのだが、小さいのでいいというので、そうした。買う時に運転手に何個欲しいかと聞いたら、12個と言っていたから、それで良いことにした。
大学の車は、使うのに、当然ながら、制約があり、使える時になるべく重い物を買っておくことにする。運転手もその点心得ていて、重い物を買う手伝いをしてくれる。

車の運転手

2011年12月08日 | Weblog
テレピン油というのを頼まれて、買ってインドに持って行こうとしたが、成田の荷物検査で引っかかり、取り上げられてしまった。発火点が60度以下のものは駄目なのだそうだ。テレピン油がそれ以下かどうかわからないから、今度持参する時は、それを証明する物を持ってくるようにということであった。
デリー/成田の時は、追い風で6時間5分だっが、成田からデリーまで、約6600キロ強で8時間5分かかるところが、8時間足らずで飛んだ。6時10分には通関が終わり外に出られた。
デリーの空港にクラレ・インディアの車が迎えにきてくれることになっていたが、6時と言ってあったのに、出迎えのところにいなくて、やむなく、外に出て待ったところ、運転手が空港の中の出迎えのところから6時半ころ出てきて、6時に来ていたと嘘を言う。
翌朝も7時に迎えに来ると言っていながら、7時15分になっても来ないし、電話が切ってあって繋がらないので、まだ寝ているのだろうと判断して、タクシーを頼んだ。タクシーが迎えに来るのと殆ど同じ頃にクラレの運転手が来たので、もう、タクシーで行くからいいと断った。ネルー大学の門からなかなか入れてもらえなかったと言い、電話を切っていたのをつけてから、電話の調子が悪いと言う。良く嘘を言う運転手であるが、この程度の嘘を言うインド人は多い。いや、日本人でも多いかもしれない。
ナーグプル空港には、大学の車が迎えにきてくれていた。これは、ちゃんと、申込書を書いてあったから、書類通りに迎えにきたのだ。

車の運転手

2011年12月08日 | Weblog
テレピン油というのを頼まれて、買ってインドに持って行こうとしたが、成田の荷物検査で引っかかり、取り上げられてしまった。発火点が60度以下のものは駄目なのだそうだ。テレピン油がそれ以下かどうかわからないから、今度持参する時は、それを証明する物を持ってくるようにということであった。
デリー/成田の時は、追い風で6時間5分だっが、成田からデリーまで、約6600キロ強で8時間5分かかるところが、8時間足らずで飛んだ。6時10分には通関が終わり外に出られた。
デリーの空港にクラレ・インディアの車が迎えにきてくれることになっていたが、6時と言ってあったのに、出迎えのところにいなくて、やむなく、外に出て待ったところ、運転手が空港の中の出迎えのところから6時半ころ出てきて、6時に来ていたと嘘を言う。
翌朝も7時に迎えに来ると言っていながら、7時15分になっても来ないし、電話が切ってあって繋がらないので、まだ寝ているのだろうと判断して、タクシーを頼んだ。タクシーが迎えに来るのと殆ど同じ頃にクラレの運転手が来たので、もう、タクシーで行くからいいと断った。ネルー大学の門からなかなか入れてもらえなかったと言い、電話を切っていたのをつけてから、電話の調子が悪いと言う。良く嘘を言う運転手であるが、この程度の嘘を言うインド人は多い。いや、日本人でも多いかもしれない。
ナーグプル空港には、大学の車が迎えにきてくれていた。これは、ちゃんと、申込書を書いてあったから、書類通りに迎えにきたのだ。

赤ん坊の粉ミルクにまで放射能

2011年12月07日 | Weblog
田舎暮らしをやめて、いよいよまたインドに行く。
インドの田舎であることには変わりないが。
赤ん坊のための粉ミルクにも放射能が入っていたという。材料ではなく,埼玉県の空気から入ったようである。大変なことだ。
九州のお茶を買ったが,これも本当に大丈夫か心配だ。