【Q】「間人」の読みは?
イ)まじん
ロ)まひと
ハ)たいざ
答えは一番下↓
2015年08月07日
【奥之院】を散策
参道のお墓を巡ってます
井伊家の墓は見つけられず、あきらめて先へ進む
見つけられなかったのは↓の人のたたり?
12時02分、
Д《石田三成墓所》
小さい頃は、井伊家に遠慮して三成のことは口にできなかった
肩身の狭い思いしてたが、
月日が経ち、今や人気者になりました。
この前も佐和山小が母校と言ったら若い女性から羨ましがられた
感無量ですわ。
合掌しました!
Д《明智光秀墓所》
この人が謀反おこさなかったら、安土は首都になれたかも?
安土城も灰塵に帰することは無かったかも?
畜生!
靖国神社の例を出すのはいけないけど、
高野山も国のために戦った人の英霊が集う聖地なのです
外人には理解できないだろうが…。
Д《相模小田原大久保家》11万3千石
藩祖は大久保忠世。
2代目の忠隣の時、大久保長安事件で失脚。
忠隣は近江に流された。
気になるので、調べたら
な、な、なんと!
忠隣は近江の栗太郡中村に流され、その後彦根井伊家が預り佐和山の麓の石崎、現在の弁天山付近で亡くなったそうです。
いやぁこれは知らなかった。
また一つ勉強になりました。
ちなみに現在の彦根市長は大久保さんです。
直接、関係があるかないか?
わかりません。
その後の小田原藩は別の譜代大名が交替していくが、
1686年、再び大久保家が返り咲きし幕末まで存続しました
Д《鳥取池田家墓所》32万石
岡山池田家の分家になるが、藩主光仲の外祖父が家康になるため、
家の格は岡山の本家より高かった
鳥取駅近くでご飯食べ、鳥取砂丘に行ったが、
鳥取城は未登城。当然ながら百名城スタンプまだです。
そろそろ行かねばなるまい。
Д《備後福山水野家四代勝種墓所》
福島正則改易で、あらたに創設された福山藩は水野勝成から始まり、
西海道の外様大名ににらみをきかしたが、
四代勝種が36歳で死去。五代勝岑は2歳で死去。
福山水野家は消滅。
勝成の功績が評価され、水野家は後に関東の結城藩として存続した。
大河ドラマで水野勝成を取り上げてくれると面白いドラマになると思うのだが…。
Д《上州高崎安藤家墓所》5万6千石
高崎藩と言えば井伊直政ですが、佐和山城へ移封後、
いくつかの譜代大名が交替し、1619年安藤重信が入った。
高崎城はこの安藤家によって大改築整備された。
3代重博の時、備中に移封された。
この安藤家は備中松山→美濃加納→そして、最後に奥州の磐城平藩に移り幕末まで存続した。
標注が斜めに倒れかけてる…。
Д《越後村上内藤候墓所》5万石
内藤家じゃなくて内藤候となってるのはなぜなんでしょうか?
堀氏からいくつか藩主が交替し、1720年内藤弌信が藤枝から移ってきて幕末まで存続した
雨のなか山城の村上城に登りましたよ。
今思うに、滑落せずに無事に下山できたのが不思議やわ。
詳細は後日またいつか…。
Д《江州膳所本多俊次墓所》6万石。
戸田、本多、石川家が交替した後、
1651年、本多俊次が伊勢亀山から移り幕末まで存続した。
1662年、地震で城が倒壊し大改築をおこなった。
幕末、財政が苦しくて維持するのが困難となり廃城、取り壊した。
貴重な水城だっただけに今思うと残念ですな。
というか、膳所を「ぜぜ」と読める人、意外に少なかったりして…。
Д《奥州相馬家墓所》6万石
相馬と聞けば、すぐに浮かぶのが「相馬野馬追」
この前、テレビで見たが迫力ありますな。
是非とも生で見てみたいものです。
相馬氏の先祖平将門が始めた祭りだとか?
中村に城があり、相馬中村藩と呼ばれる。
Д《陸奥白河二本松丹羽家》10万石
六角攻めの後、佐和山城主にもなった丹羽長秀。
羽柴秀吉の羽は丹羽から取ったとか?
織田家の重臣だったが、秀吉にうまくまるめこまれ臣下となってしまう。
最大時、越前120万石となるが、秀吉の作戦で所領を減らし10分の1の12万石、さらに関ヶ原の戦いで前田家と戦ったため戦後所領没収。
しかし、2代将軍秀忠・お江との縁で
長秀の子の長重が白河藩主として復帰、小峰城を改築し白河城下町を整備した。
この後、光重の時に二本松に移り幕末まで存続する。
白河城・二本松城ともに百名城に指定されてます。
雨に祟られ米沢と会津若松で足止めを食ったのでいまだに未踏。
Д《出羽庄内藩主酒井家墓所》14万石
画像はピンボケ。
姫路の酒井家が雅楽頭酒井家、庄内は佐衛門尉酒井家。
同族である。
藤沢周平氏の小説では海坂藩。
雨のなか鶴岡と酒田を徘徊しました
探訪詳細は後日またいつか…。
Д《伊勢桑名城主本多忠勝墓所》
大河ドラマ真田丸では藤岡弘が演じてますが、ピッタリの役ですな。
忠勝のおかげで真田家は生き残れたと言ってもいいのではないか?
子の忠政の時、姫路に移されたので桑名には17年しかいなかったが、
忠勝の像が城跡に建ってます。
桑名は我が市から車なら近いが、電車で行くと二時間以上かかる。
徳川家の家臣、松平・本多・酒井、いろいろ系統があるのでややこしいですな。
Д《南海電鉄創業者松本重太郎翁墓》
丹後国(京都府)竹野郡鳥取郷間人村の出身。
間人と言えば、カニ。
そして、んまのすけさん!
うんちくを聞きたかったなぁ…。
和歌山市には南海電鉄管理の和歌山市駅とJRが管理する和歌山駅がある。
お間違えなく!
12時17分、
『中の橋』
一の橋から約1キロ、
40分もかかりました。
その4に続く👍
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
本日の答え、
『たいざ』
間人皇后がこちらに来られた。
「はしひと」と読むが、おそれ多いので
皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読むようになったとか?
以前、地図クイズで出題したら、
これはサービス問題やね、と、んまのすけさんが解答をくれた
ブログ(画像あり)
http://blog.goo.ne.jp/hakusiyu/0?guid=ON
Φ(*^ひ^*)Φ
ハッカは、薄荷と書くのですね。
じゃあ、ニッキは?
広辞苑で調べたら
肉桂(にっけい)
でした。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
「還付金振込ました」
というメールが来た
アドレスが書いてある。
クリックしたら詐欺に決まってるので
即、削除しました。
皆さんも気をつけてね
だニャー
馬ひでにゃん
(*⌒Q⌒*)ヒヒーン
イ)まじん
ロ)まひと
ハ)たいざ
答えは一番下↓
2015年08月07日
【奥之院】を散策
参道のお墓を巡ってます
井伊家の墓は見つけられず、あきらめて先へ進む
見つけられなかったのは↓の人のたたり?
12時02分、
Д《石田三成墓所》
小さい頃は、井伊家に遠慮して三成のことは口にできなかった
肩身の狭い思いしてたが、
月日が経ち、今や人気者になりました。
この前も佐和山小が母校と言ったら若い女性から羨ましがられた
感無量ですわ。
合掌しました!
Д《明智光秀墓所》
この人が謀反おこさなかったら、安土は首都になれたかも?
安土城も灰塵に帰することは無かったかも?
畜生!
靖国神社の例を出すのはいけないけど、
高野山も国のために戦った人の英霊が集う聖地なのです
外人には理解できないだろうが…。
Д《相模小田原大久保家》11万3千石
藩祖は大久保忠世。
2代目の忠隣の時、大久保長安事件で失脚。
忠隣は近江に流された。
気になるので、調べたら
な、な、なんと!
忠隣は近江の栗太郡中村に流され、その後彦根井伊家が預り佐和山の麓の石崎、現在の弁天山付近で亡くなったそうです。
いやぁこれは知らなかった。
また一つ勉強になりました。
ちなみに現在の彦根市長は大久保さんです。
直接、関係があるかないか?
わかりません。
その後の小田原藩は別の譜代大名が交替していくが、
1686年、再び大久保家が返り咲きし幕末まで存続しました
Д《鳥取池田家墓所》32万石
岡山池田家の分家になるが、藩主光仲の外祖父が家康になるため、
家の格は岡山の本家より高かった
鳥取駅近くでご飯食べ、鳥取砂丘に行ったが、
鳥取城は未登城。当然ながら百名城スタンプまだです。
そろそろ行かねばなるまい。
Д《備後福山水野家四代勝種墓所》
福島正則改易で、あらたに創設された福山藩は水野勝成から始まり、
西海道の外様大名ににらみをきかしたが、
四代勝種が36歳で死去。五代勝岑は2歳で死去。
福山水野家は消滅。
勝成の功績が評価され、水野家は後に関東の結城藩として存続した。
大河ドラマで水野勝成を取り上げてくれると面白いドラマになると思うのだが…。
Д《上州高崎安藤家墓所》5万6千石
高崎藩と言えば井伊直政ですが、佐和山城へ移封後、
いくつかの譜代大名が交替し、1619年安藤重信が入った。
高崎城はこの安藤家によって大改築整備された。
3代重博の時、備中に移封された。
この安藤家は備中松山→美濃加納→そして、最後に奥州の磐城平藩に移り幕末まで存続した。
標注が斜めに倒れかけてる…。
Д《越後村上内藤候墓所》5万石
内藤家じゃなくて内藤候となってるのはなぜなんでしょうか?
堀氏からいくつか藩主が交替し、1720年内藤弌信が藤枝から移ってきて幕末まで存続した
雨のなか山城の村上城に登りましたよ。
今思うに、滑落せずに無事に下山できたのが不思議やわ。
詳細は後日またいつか…。
Д《江州膳所本多俊次墓所》6万石。
戸田、本多、石川家が交替した後、
1651年、本多俊次が伊勢亀山から移り幕末まで存続した。
1662年、地震で城が倒壊し大改築をおこなった。
幕末、財政が苦しくて維持するのが困難となり廃城、取り壊した。
貴重な水城だっただけに今思うと残念ですな。
というか、膳所を「ぜぜ」と読める人、意外に少なかったりして…。
Д《奥州相馬家墓所》6万石
相馬と聞けば、すぐに浮かぶのが「相馬野馬追」
この前、テレビで見たが迫力ありますな。
是非とも生で見てみたいものです。
相馬氏の先祖平将門が始めた祭りだとか?
中村に城があり、相馬中村藩と呼ばれる。
Д《陸奥白河二本松丹羽家》10万石
六角攻めの後、佐和山城主にもなった丹羽長秀。
羽柴秀吉の羽は丹羽から取ったとか?
織田家の重臣だったが、秀吉にうまくまるめこまれ臣下となってしまう。
最大時、越前120万石となるが、秀吉の作戦で所領を減らし10分の1の12万石、さらに関ヶ原の戦いで前田家と戦ったため戦後所領没収。
しかし、2代将軍秀忠・お江との縁で
長秀の子の長重が白河藩主として復帰、小峰城を改築し白河城下町を整備した。
この後、光重の時に二本松に移り幕末まで存続する。
白河城・二本松城ともに百名城に指定されてます。
雨に祟られ米沢と会津若松で足止めを食ったのでいまだに未踏。
Д《出羽庄内藩主酒井家墓所》14万石
画像はピンボケ。
姫路の酒井家が雅楽頭酒井家、庄内は佐衛門尉酒井家。
同族である。
藤沢周平氏の小説では海坂藩。
雨のなか鶴岡と酒田を徘徊しました
探訪詳細は後日またいつか…。
Д《伊勢桑名城主本多忠勝墓所》
大河ドラマ真田丸では藤岡弘が演じてますが、ピッタリの役ですな。
忠勝のおかげで真田家は生き残れたと言ってもいいのではないか?
子の忠政の時、姫路に移されたので桑名には17年しかいなかったが、
忠勝の像が城跡に建ってます。
桑名は我が市から車なら近いが、電車で行くと二時間以上かかる。
徳川家の家臣、松平・本多・酒井、いろいろ系統があるのでややこしいですな。
Д《南海電鉄創業者松本重太郎翁墓》
丹後国(京都府)竹野郡鳥取郷間人村の出身。
間人と言えば、カニ。
そして、んまのすけさん!
うんちくを聞きたかったなぁ…。
和歌山市には南海電鉄管理の和歌山市駅とJRが管理する和歌山駅がある。
お間違えなく!
12時17分、
『中の橋』
一の橋から約1キロ、
40分もかかりました。
その4に続く👍
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
本日の答え、
『たいざ』
間人皇后がこちらに来られた。
「はしひと」と読むが、おそれ多いので
皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を「たいざ」と読むようになったとか?
以前、地図クイズで出題したら、
これはサービス問題やね、と、んまのすけさんが解答をくれた
ブログ(画像あり)
http://blog.goo.ne.jp/hakusiyu/0?guid=ON
Φ(*^ひ^*)Φ
ハッカは、薄荷と書くのですね。
じゃあ、ニッキは?
広辞苑で調べたら
肉桂(にっけい)
でした。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
「還付金振込ました」
というメールが来た
アドレスが書いてある。
クリックしたら詐欺に決まってるので
即、削除しました。
皆さんも気をつけてね
だニャー
馬ひでにゃん
(*⌒Q⌒*)ヒヒーン