2017年3月4日(土)
滋賀県の探訪講座で、
『大津から膳所へ』があり、参加しました。
青春18切符を使いました。
て、大津までだと赤字!

この時、なぜ18切符を使ったのか?
我ながら理解できない

大津駅前に
『車石(くるまいし)』

我がブログで何度も繰り返し取り上げてるので、少しは認知度上がったと思うが、まだまだ全国的知名度が低い。
昔、東海道の峠を越えるために大変な思いで荷車、牛車が行き交ったことを知ってほしいのです。

車石は、昔の線路の痕跡とも言える。
100人ほど集合。

大津駅前から出発しました。

西へ向かい国道161号線、京阪の電車道に到着。

『大津宿本陣跡』

旧東海道歩きで、わざと取り上げなかったのはこの探訪の時に立ち寄ってたからです。
遺構も建物も残ってなくて、
この看板と『明治天皇聖跡碑』が残るのみ。

でもね、明治天皇の行幸のおかげで東海道、中山道、北国街道などに街道ルートの痕跡を知る手がかりを残してくれました。
街道の痕跡が消え行くなかで貴重な史跡と言えます。

長等山方向を見上げてます。
関ヶ原の合戦の当日、
九州勢を中心とする西軍は大津城にさしかかった。
城主は、京極高次。
高次、最初は西軍だったが、突然心変わりして東軍に寝返って、籠城。
高次の奥さんが淀殿の妹なので西軍は力攻めしたくなかったが、どうしても降伏しないので、ついに武力戦に。
しかし、なかなか城が落ちない。
そこで、長等山に大砲を据えて城を攻撃した。
これが決定打となり高次は降伏することになり、
高次は高野山に蟄居した。
西軍の九州勢は関ヶ原へと急ぐが、
すでに関ヶ原では敗戦となっていて間に合わず、仕方なく大阪城へ引き返すのであった。
西軍を釘付けにした功績に報いるため家康は高次に小浜城10万石を与えました。
高次の判断のおかげで近江の名門京極家は明治維新まで大名として残ることができたのです。

京阪電車が国道の路面電車になる位置。

下り坂を大津城跡まで向かう。
低地にある大津城の弱点を知った家康は、大津城を廃城にし、あらたに膳所城を築いた。
大津城の天守は彦根城に移され、現在の彦根城天守がその名残だと言われてます。
というか、大津城天守は五重だったので、三重の彦根城天守は少し小さくなりました。


北国海道西近江路を見てます。

こちらは前回まで紹介した旧東海道。
この女の人、お城好きで講座や探訪でもう何十回も会ってます。
会ってますが、別に話はしないけど…。
『大津丸屋町商店街』

隣の菱屋町商店街とともに大津市一番の繁華街です。
でも、近年はシャッター街になりつつあるので、色々と企画を考えて頑張ってます。
この日は百円市で珍しく賑わってました。
そんななか我が集団は、
この石垣を見学。

『大津城外堀石垣』の痕跡と言われてます。

商店街の中にここだけ忽然と残っていて、
研究者によっては、ホンマかいな?
と疑う意見もあります。
今のところ真偽不明…。

大津祭曳山展示館の裏側まで石垣が続いてるそうです。
商店街から引き返して北上します。

浜大津一丁目。

西へ向かい、右折

縦長の川口公園に来ました。
大集団なので移動が大変ですわ。
『川口堀』

この公園は実は船入場で、大津城の中堀の痕跡ではないか?
と言われてます。
真偽不明…。

すぐそばを京阪電車の石坂線が走ってる

後編へ続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
滋賀県の探訪講座で、
『大津から膳所へ』があり、参加しました。
青春18切符を使いました。
て、大津までだと赤字!

この時、なぜ18切符を使ったのか?
我ながら理解できない

大津駅前に
『車石(くるまいし)』

我がブログで何度も繰り返し取り上げてるので、少しは認知度上がったと思うが、まだまだ全国的知名度が低い。
昔、東海道の峠を越えるために大変な思いで荷車、牛車が行き交ったことを知ってほしいのです。

車石は、昔の線路の痕跡とも言える。
100人ほど集合。

大津駅前から出発しました。

西へ向かい国道161号線、京阪の電車道に到着。

『大津宿本陣跡』

旧東海道歩きで、わざと取り上げなかったのはこの探訪の時に立ち寄ってたからです。
遺構も建物も残ってなくて、
この看板と『明治天皇聖跡碑』が残るのみ。

でもね、明治天皇の行幸のおかげで東海道、中山道、北国街道などに街道ルートの痕跡を知る手がかりを残してくれました。
街道の痕跡が消え行くなかで貴重な史跡と言えます。

長等山方向を見上げてます。
関ヶ原の合戦の当日、
九州勢を中心とする西軍は大津城にさしかかった。
城主は、京極高次。
高次、最初は西軍だったが、突然心変わりして東軍に寝返って、籠城。
高次の奥さんが淀殿の妹なので西軍は力攻めしたくなかったが、どうしても降伏しないので、ついに武力戦に。
しかし、なかなか城が落ちない。
そこで、長等山に大砲を据えて城を攻撃した。
これが決定打となり高次は降伏することになり、
高次は高野山に蟄居した。
西軍の九州勢は関ヶ原へと急ぐが、
すでに関ヶ原では敗戦となっていて間に合わず、仕方なく大阪城へ引き返すのであった。
西軍を釘付けにした功績に報いるため家康は高次に小浜城10万石を与えました。
高次の判断のおかげで近江の名門京極家は明治維新まで大名として残ることができたのです。

京阪電車が国道の路面電車になる位置。

下り坂を大津城跡まで向かう。
低地にある大津城の弱点を知った家康は、大津城を廃城にし、あらたに膳所城を築いた。
大津城の天守は彦根城に移され、現在の彦根城天守がその名残だと言われてます。
というか、大津城天守は五重だったので、三重の彦根城天守は少し小さくなりました。


北国海道西近江路を見てます。

こちらは前回まで紹介した旧東海道。
この女の人、お城好きで講座や探訪でもう何十回も会ってます。
会ってますが、別に話はしないけど…。
『大津丸屋町商店街』

隣の菱屋町商店街とともに大津市一番の繁華街です。
でも、近年はシャッター街になりつつあるので、色々と企画を考えて頑張ってます。
この日は百円市で珍しく賑わってました。
そんななか我が集団は、
この石垣を見学。

『大津城外堀石垣』の痕跡と言われてます。

商店街の中にここだけ忽然と残っていて、
研究者によっては、ホンマかいな?
と疑う意見もあります。
今のところ真偽不明…。

大津祭曳山展示館の裏側まで石垣が続いてるそうです。
商店街から引き返して北上します。

浜大津一丁目。

西へ向かい、右折

縦長の川口公園に来ました。
大集団なので移動が大変ですわ。
『川口堀』

この公園は実は船入場で、大津城の中堀の痕跡ではないか?
と言われてます。
真偽不明…。

すぐそばを京阪電車の石坂線が走ってる

後編へ続く
馬《●▲●》助ヒヒーン♪