2018年2月11日(日)
旧東海道は、響忍寺の前の道を約300m進み右折すると膳所城と並行するように直進する
右手に
11時55分、
『和田神社』
白鳳年間の創建。
本殿は、一間社流造、屋根は檜皮葺。
正面に軒唐破風がある。
この様式が鎌倉時代の様式をあらわしてるので、国重文となった。
昨年3月の探訪の時は桜が咲いてました。
すっかり落葉してますが、このいちょうの木は、琵琶湖からの目標になるほどの巨木。
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都に護送される途中、この木に繋がれた。
高麗門は、膳所藩校遵義堂の門を移築した。
明治維新になって膳所藩は、財政難となり、お城を維持するのが難しくいち早く廃藩届を出した。
その際、天守や石垣など売りに出されました。
現在、膳所地区の寺社などに門などの建造物の一部が残されてる。
この高麗門もその1つです。
*『高麗門』とは、
秀吉時代以降に造られ、寺社や城の門として採用された。
柱が4本。
前柱の2本の上に切妻屋根が乗り、
後ろの控え柱2本の上には小さな切妻屋根が乗る
わろてんかのポスター。
この人、今も活躍してるのかな?
たこ焼き屋を前を通り真っ直ぐ進む。
右手に
『縁心寺』
旧膳所城主御菩提所と書かれてます。
藩主は色々代わってますが、こちらは本多家の菩提寺。
膳所藩本多家初代藩主本多康俊の父が徳川四天王の1人の酒井忠次で、
その忠次の菩提を弔うために創建された。
最初は三河国西尾にあったが、こちらに移された。
さらに、膳所藩主だった戸田一西夫妻の墓も境内にある。
墓地に入りました。
残念ながら、戸田家の墓は見つけられなかった。
さらに進むと交差点があり、
ここに大手門がありました。
ここで一旦街道を離れて、寄り道。
城跡と城下町を探索します。
その26へ
Φ(*^ひ^*)Φ
今日は暖かく天気が良いという予報だったので、朝から窓拭きした。
しかし、
天気悪いぞ!
冷たい風が吹いてるぞ!
あーさぶー!
天気予報のお姉さんに騙された
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ようやく、年賀ハガキ買いました。
でも、まだ書きません
三連休終わってから書くわ。
相変わらず、なかなか前に進まない年末の今日この頃です。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
旧東海道は、響忍寺の前の道を約300m進み右折すると膳所城と並行するように直進する
右手に
11時55分、
『和田神社』
白鳳年間の創建。
本殿は、一間社流造、屋根は檜皮葺。
正面に軒唐破風がある。
この様式が鎌倉時代の様式をあらわしてるので、国重文となった。
昨年3月の探訪の時は桜が咲いてました。
すっかり落葉してますが、このいちょうの木は、琵琶湖からの目標になるほどの巨木。
関ヶ原の戦いで敗れた石田三成が京都に護送される途中、この木に繋がれた。
高麗門は、膳所藩校遵義堂の門を移築した。
明治維新になって膳所藩は、財政難となり、お城を維持するのが難しくいち早く廃藩届を出した。
その際、天守や石垣など売りに出されました。
現在、膳所地区の寺社などに門などの建造物の一部が残されてる。
この高麗門もその1つです。
*『高麗門』とは、
秀吉時代以降に造られ、寺社や城の門として採用された。
柱が4本。
前柱の2本の上に切妻屋根が乗り、
後ろの控え柱2本の上には小さな切妻屋根が乗る
わろてんかのポスター。
この人、今も活躍してるのかな?
たこ焼き屋を前を通り真っ直ぐ進む。
右手に
『縁心寺』
旧膳所城主御菩提所と書かれてます。
藩主は色々代わってますが、こちらは本多家の菩提寺。
膳所藩本多家初代藩主本多康俊の父が徳川四天王の1人の酒井忠次で、
その忠次の菩提を弔うために創建された。
最初は三河国西尾にあったが、こちらに移された。
さらに、膳所藩主だった戸田一西夫妻の墓も境内にある。
墓地に入りました。
残念ながら、戸田家の墓は見つけられなかった。
さらに進むと交差点があり、
ここに大手門がありました。
ここで一旦街道を離れて、寄り道。
城跡と城下町を探索します。
その26へ
Φ(*^ひ^*)Φ
今日は暖かく天気が良いという予報だったので、朝から窓拭きした。
しかし、
天気悪いぞ!
冷たい風が吹いてるぞ!
あーさぶー!
天気予報のお姉さんに騙された
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
ようやく、年賀ハガキ買いました。
でも、まだ書きません
三連休終わってから書くわ。
相変わらず、なかなか前に進まない年末の今日この頃です。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪