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ぽかぽか春庭「文語文衰退どころか日本語消滅」

2012-07-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/07/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(5)文語文衰退どころか日本語消滅

 失われていくことばを惜しみ、イマドキの新語、新しい意味の付加に憤りを感じるのは、日本語成立以後、この1万年のあいだ、必ずどの時代の年寄りもそれを憤り、嘆いてきたのです。1万年前の縄文語()

 しかるに、今、その1万年前の縄文語とは言わず、書き言葉成立以後すなわち『古事記』以後の、日本語の千年の変化に匹敵するくらいの量の大変化が日本語に起きています。水村美苗は、『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』で、英語がグローバル言語化したことによる「近代日本語の消滅」を憂えていますが、近代日本語の消滅どころではない、日本語がぜんぶ、すっからかんに消滅するときは近い。

 楽天とユニクロが「社内公用語の英語化」を発表したとき、社員食堂のメニューまで「tuna-don」とか「roast eel」となるって聞いて、いったいドースルつもりなんだろうと思いました。

 しかし、もし、楽天とユニクロが企業として成功し、他社に入るより、英語しゃべれてユニクロに入ったほうが、生涯賃金が高くて、他社より裕福に暮らせそう、となったとき、ここに有能な人材が集まるようになります。みんなちょっとでもいい暮らしがしたいみたいだし。そうなると、他にも追随する社がでてきます。たちまち親たちは、なだれを打って、子どもを英会話塾に通わせます。学校教育の英語では心許ないからです。

 ちょっと英語ができる親なら、生まれたときから英語になじませるべく、家庭の中で両親とも子どもの前では英語を話すことに決めます。かくして、日本にいながら、生まれつき英語をしゃべる子どもができあがり、その次の世代では、ほとんどすべての家庭で、母語は英語となります。「日本語」は、学校の「国語」の時間に教わるだけとなり、国語の成績なんぞよくても、給料の高い会社には入れぬのですから、「英語」の学習に比べて、熱の入れようは格段に低い。

 いまどきの「教養おばはん」が「源氏物語を原文で読む会」なぞに通うのを「趣味」にするのと同じように、「ジブリアニメを日本語で見る会」などが「おたくっぽい趣味の世界」になり、子ども達は「Princes Mononoke」を見て育つでしょう。
 たった3代、100年で日本語は消滅するのです。「英語で生活したほうが、日本語を使って暮らすより、いい生涯がすごせる」と、大方の人が感じれば、世の中そうなります。

 豊かな口承伝説を持つネイティブ・アメリカンの言語の多くは、すでに母語話者が消滅しています。英語を話なさなければ、居留地で酒飲んで過ごす人生のほか、生活方法がない、ということになると、ネイティブの若者は英語を話して生きるしかなかったから。
 ユーカラなどの美しい神話を口承で伝えてきたアイヌ語も、母語として話す家庭はありません。学習言語としてアイヌ語を身につける若者も増えてはきたけれど、家庭の母語としては消えてしまいました。日本語を学ばなければ、教育を受けられなかったのですから、彼らの選択を非難することはできません。これらの母語消滅は、占領者による強制的なものでしたが、今、私たちは、経済的な占領者による母語剥奪の危機を前にしているのです。

 私は、日本語が文語文を「公式の書き言葉」としなかったことにも、歴史的仮名遣いを採用しなくなったことも、時代の流れとして、受け止めてきました。
 しかし、「英語公用語化」には、強く反対します。楽天とユニクロの試みが企業としては成功し、さらなる経済向上をもたらすものであるとしても、母語という「思考の道具」「母語の言語文化」を失うことの大きさを考えると「母語こそ祖国」と、いうウヨっぽい言説にも賛成しないわけにはいきません。
 まさに、「どんな言語によって思考するか」ということが大事なのです。おなかがぐぅと鳴ったとき「ああ、ハラへった」と頭の中で思うか、「I'm hungry」と思うか、そこが大事であり、「ハラへった」という語句によって考えたということがアイディンティのもとなのです。

 牲川波都季『戦後日本語教育学とナショナリズム』くろしお出版2012という本を、珍しく新刊書店で定価で買って読んだのも、どうしても「母語をたいせつに」うんぬんと言うと、ナショナリストっぽくなってしまうので、なんとかして、ウヨっぽくない方法で「母語を文化資産として尊重すべきだ」ということを訴えるために参考になるかとおもったからなのですが、この本に書いてあったことは、戦前の日本語教育と同じく、戦後日本語教育も、ナショナリズムに貫かれている、ということの検証でした。

 ナショナリズムそのものが、近代国家を成立させるための「新しい思想」であったのはわかりますが、本居宣長の「から心でなく、やまと心」という言説が、見事に日本の近代軍事国家の思想として利用されてしまったように、「母語を大切に」という思想がエセナショナリズムやらプチナショナリズムやらに安易に利用されずにすむにはどうしたらよいのか、夜もねないで、思案中。(当然、ひるねはたっぷり)

 ひとつ確かに言えることは、どんなにはちゃめちゃなギャル語だのヤンキー語だのになるとしても、母語が消滅するよりはマシだ、ということ。
 私たちには文語文がむずかしくて、頭をひねっても理解しにくものであり、イマドキの若者にとって、現代文(近代口語文)が読めなくなっていたとしても、私たちも頭をもうちょっとひねれば、なんとか意味はつかめるのが文語文であり、若者だって読もうと決意すれば現代文も読めるようになります。

 しかし、日本人全員が母語を捨ててしまったら、私たちにはシェークスピアの古英語はさっぱりわからず、古代ギリシャ語でホメロスが読めないのと同じように、古事記も万葉集も源氏も平家も、漱石も鴎外も、「よその人々の文化」になってしまう。
 言語とは「自分が自分であるための根幹」になるものです。枝葉で英語を茂らせても、根幹の思考力は日本語で培ってほしいです。

 ただひとつ希望があるのは、「賃金の高そうな企業に入ってできるだけたくさんお金をかせぐのがいい生涯」とは考えない人々も出てきている、ということです。「モバイルハウスの作り方」や、NPOでマイクロファイナンス活動をしている人々、フェアトレードや地産地消活動など、「お金だけでいきているんじゃない」という若者の出現を知り、それなら、日本語もまだ命脈を保とうかと、望みを持っているのですが、、、、 

 先週の授業では、「雨のことば」を発表した学生がいました。毎年「雨のことば」を集めよう、という授業をしているのですが、日本語の雨のことば、100以上ある、でも英語では、五月雨と梅雨を異なる語で言い表すことはできないし、霧雨と小糠雨の違いも単語レベルでは分けられない。野分と台風のちがいも。 
 雨の微妙なちがいを言い分ける感受性を含むことばがあり、ことばがあるから雨を感じる感受性が育つ。
 春雨、夕立、長雨、時雨、氷雨、、、、、それぞれの雨の情趣を感じるには、それぞれの雨のことばが必要。

 「花の色はうつりにけりな」と読めばたちまち、自分のまわりの春の移り変わりを思い浮かべることができ、「ながめせしまに」と読んで、「長雨」と「眺め」がかけあわされた「ことばの機知」と微妙な女心を胸にのぼらす、、、、
 このことばを失いたくない。

<つづく>
コメント (4)
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