2012/07/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(3)山本夏彦の『完本文語文』
山本夏彦の『完本文語文』に出てくる語彙で、春庭の使用語彙でも理解語彙でもなかった語のリスト。続き。
p270「操觚者そうこしゃ」
文筆に従事する人。文筆家・編集者・記者など。操觚家。ジャーナリスト。
「觚」は四角い木札。古代中国でこれに文字を書いたところから、觚を操る人とは、詩文を作り文筆に従事する人を言う。山本翁の解説では「文章家」
p275「質は天(けいてん)七宝の柱」
芥川龍之介が泉鏡花全集の推薦文を書いた。その一節にいわく。
「試みに先生等身の著作を以て 仏蘭西羅曼 ( フランスロマン ) 主義の諸大家に比せんか、質は 天七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す 可 ( ベ ) く、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に 肩随 ( けんずゐ ) す可し」
手持ちの漢和を調べてみました。角川『漢和辞典1989』と大修館『現代漢和1996』には、この敬の下に手を書く「」という文字の記載がない。
小学館『現代漢語例解辞典』には、「ケイ、ささげる」という読み方と、「ささげる、あげる」という字義のみで、熟語は掲載されていない。
三省堂『全訳漢辞海2004』に、「上に向かって支える。かかげる」「手に持つ」という意味のほか、用例が出てくる。「八柱天高明之位列(八つの柱が天を高く支える)張説『姚崇碑』」
「天七宝」という熟語は、どこにも載っていません。
慶応生まれの夏目漱石は漢詩文を読めるし自分でも漢詩を書いた。ところが、明治生まれの芥川の世代になると漢詩文は読めるが、自作はしなかった、と言われています。(実際は、漢詩くらい書いたのでしょうけれど、発表するほどのレベルには達しなかったのかもしれません)
昭和生まれの春庭になると、もはや漢詩文は、書き下し文に現代語訳をつけてもらわないと意味わからず、白文なんぞ見せられても、ちんぷんかんぷんです。
芥川は、いったいどこで「天七宝」という語を目にしたのでしょうか。
泉鏡花を誉めるにあたって、適切なことばを探したのでしょうけれど、平成の今では、漢和辞書でさえ、この「天」という語を載せていないことがわかりました。ゆえに、浅学非才ぽかぽか春庭ごときが知らなくても、当然の語ではありますが、明治人の漢文力は、ほんとうにすごい。
p278「近来罕(ま)れな款語(かんご)の連続だったと、辰野(隆)は述懐している」
款語とは、款話に同じ。うちとけて話しあうこと。親しく語り合うこと。
私、款のつく熟語は落款、定款、約款しか知りませんでした。はい、「款語」、はじめて見ました。
言文一致、口語文以後、私たちは漢詩文、漢文脈、漢語というのを少しずつ捨て去ってきたのですが、山本夏彦が「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」と、嘆いても、この遺産を受け継がなかった私たちの世代のあとでは、漢文脈、文語文というのは、「埋もれた宝」になる一方なのでしょう。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>明治の語彙(3)山本夏彦の『完本文語文』
山本夏彦の『完本文語文』に出てくる語彙で、春庭の使用語彙でも理解語彙でもなかった語のリスト。続き。
p270「操觚者そうこしゃ」
文筆に従事する人。文筆家・編集者・記者など。操觚家。ジャーナリスト。
「觚」は四角い木札。古代中国でこれに文字を書いたところから、觚を操る人とは、詩文を作り文筆に従事する人を言う。山本翁の解説では「文章家」
p275「質は天(けいてん)七宝の柱」
芥川龍之介が泉鏡花全集の推薦文を書いた。その一節にいわく。
「試みに先生等身の著作を以て 仏蘭西羅曼 ( フランスロマン ) 主義の諸大家に比せんか、質は 天七宝の柱、メリメエの巧を凌駕す 可 ( ベ ) く、量は抜地無憂の樹、バルザツクの大に 肩随 ( けんずゐ ) す可し」
手持ちの漢和を調べてみました。角川『漢和辞典1989』と大修館『現代漢和1996』には、この敬の下に手を書く「」という文字の記載がない。
小学館『現代漢語例解辞典』には、「ケイ、ささげる」という読み方と、「ささげる、あげる」という字義のみで、熟語は掲載されていない。
三省堂『全訳漢辞海2004』に、「上に向かって支える。かかげる」「手に持つ」という意味のほか、用例が出てくる。「八柱天高明之位列(八つの柱が天を高く支える)張説『姚崇碑』」
「天七宝」という熟語は、どこにも載っていません。
慶応生まれの夏目漱石は漢詩文を読めるし自分でも漢詩を書いた。ところが、明治生まれの芥川の世代になると漢詩文は読めるが、自作はしなかった、と言われています。(実際は、漢詩くらい書いたのでしょうけれど、発表するほどのレベルには達しなかったのかもしれません)
昭和生まれの春庭になると、もはや漢詩文は、書き下し文に現代語訳をつけてもらわないと意味わからず、白文なんぞ見せられても、ちんぷんかんぷんです。
芥川は、いったいどこで「天七宝」という語を目にしたのでしょうか。
泉鏡花を誉めるにあたって、適切なことばを探したのでしょうけれど、平成の今では、漢和辞書でさえ、この「天」という語を載せていないことがわかりました。ゆえに、浅学非才ぽかぽか春庭ごときが知らなくても、当然の語ではありますが、明治人の漢文力は、ほんとうにすごい。
p278「近来罕(ま)れな款語(かんご)の連続だったと、辰野(隆)は述懐している」
款語とは、款話に同じ。うちとけて話しあうこと。親しく語り合うこと。
私、款のつく熟語は落款、定款、約款しか知りませんでした。はい、「款語」、はじめて見ました。
言文一致、口語文以後、私たちは漢詩文、漢文脈、漢語というのを少しずつ捨て去ってきたのですが、山本夏彦が「私は文語文を国語の遺産、柱石と思っている」と、嘆いても、この遺産を受け継がなかった私たちの世代のあとでは、漢文脈、文語文というのは、「埋もれた宝」になる一方なのでしょう。
<つづく>