20150617
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記6月(8)2003年の海のオルゴール
2003年三色七味日記再録を続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~
2003/06/28 土 くもりときどき小雨
日常茶飯事典>南蛮屏風と『海のオルゴール』
出光美術館の「京の茶陶展」を見た。サブタイトル「仁清・乾山を中心に」仁清は偽物騒ぎの一件しか知らないし、乾山は光琳の弟というしか知らない。
それに私が茶碗をみても、さっぱりどれがいいのか悪いのかわからないのであった。百円ショップのそれっぽい茶碗をガラスケースに入れて、「これは江戸期の知られざる名品です」と説明されれば、ほう、なるほどと思ってみるであろう。
収穫は屏風。酒井抱一の「十二ケ月花鳥図貼付屏風」作者不詳の「南蛮屏風」など。
南蛮屏風は『留学生のための日本史』のポルトガル人来航の説明に使われている。白黒のちいさな図版で、これまで犬だと思って見てきたのは、今回実物を見て、はじめて山羊だということがわかった。留学生に「これが本物」と見せたくて、絵はがきをさがしたが、教科書に載っている部分の絵はがきはなくて、南蛮船の部分がはがきになっていた。
出光美術館に何度かきたことがあったと思うが、ムンクとルオーがロビーにあったのは記憶にない。ムンクの「遺伝」というタイトルの絵。ひざの上に死んだ赤ん坊を乗せ、母親らしき女が泣いている。赤ん坊は胸に赤い斑点を浮かべ、やせこけている。単に病気の子供が死んだというより、「遺伝」とタイトルをつけられると、いっそうなんだか悲劇的なような気がする。
帰宅したらテレビの『海のオルゴール』を松雪泰子の竹内てるよ、池内博之のてつやでやっていて、娘と息子が見ていたから、いっしょに見た。モー娘。がでるというので、27時間テレビをみていたら、このドラマになっちゃったんだって。皇后が竹内の詩を引用したことからのドラマ化らしい。
出産したものの、てるよは脊椎カリエスのため、息子を他家へ里子に出すことになり、自分も婚家をでる。詩人として成功した後、てるよは必死に息子をさがす。息子はやくざ組織に入り、何度も犯罪を繰り返す。息子の尻ぬぐいを続けながら息子を待ち続けるてるよ。最後は息子の死を見届ける。
こちらはなんとも古めかしい典型的な「母モノ」。息子が何度罪を犯そうと、母は無限の愛を持って息子を待ち続け、受け入れる。これぞニッポンのハハなんである。このようにハハの愛が皇后のお墨付きで、存在するのであるから、ニッポンの息子どもは安心してマザコンしていられるのである。
ニッポン教とは、けだし「母の愛」がミオシエのおおもとであるなあ。大地母も阿弥陀の愛もすべてを許し受け入れる。
本日のイザナミ: 大地母イザナミを地下においやり、太陽神アマテラスのほうを至高神とした思想操作はいかに可能となったのか
2003/06/29日 日 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『裸足の1500マイル』
午後、息子と映画『裸足の1500マイルーうさぎよけのフェンス』を見た。
隔離政策によって母親と引き離された3人の少女が収容所を逃げ出し、母親のもとへ帰るまでの9週間の逃亡生活の話。そもそもアボリジニを主人公にした映画というのを初めて見た。実話によるストーリー。
最後に主人公のふたり、モリーとデイジー姉妹の本物がオーストラリアの大地を歩く姿がでると、涙がでた。モリーは結婚後も収容所に入れられ、再び逃亡する。しかし、モリーの生んだ娘は3歳のとき収容所行きとなり、モリーと娘は二度と会えなかったという。
収容所長のネビルはデビルというあだ名を持ち、「野蛮なアボリジニの中でも白人の血を分け持ったハーフを教育してやり、文明の光を与えてやるのが正しい道」と信じ込んでいる男。狭矮な白人キリスト教絶対主義が、世界中のマイノリティに果たした不正義を代表する男。
収容所でおとなしく教育され、「白人家庭の忠実な召使い」として働くようになたメイビスは、オーストラリアの大地で暮らすより幸福になれたか。「旦那様」の蹂躙におびえ、人間の尊厳を失いながら生きるしかなかったのに。
モリーは、頭のいい子だ。教育を受ければ、もしかしたらアボリジニ解放のために働ける人材になれたかもしれない。しかし、学校教育を受けさせるためにネビルたちが子供を選別する方法は「色がより白い方が優秀」という基準だった。
モリーは西洋式の学校教育を受け損ねたが、アボリジニーの伝統的な生活の知恵を身につけ、人間らしい尊厳を忘れることなく生きることができた。
現在、収容所への隔離生活を余儀なくされたアボリジニの中には、アイデンティティの不在のため心を病む人がいるのだという。オーストラリア政府は、彼らが人間としての尊厳を持って自分たちの文化を守って生きていける政策をきちんとつけるべきだろう。後からやってきて、勝手に入植し勝手にうさぎよけフェンスを張り巡らせたのは、白人なのだから。オーストラリアの大地は本来アボリジニのものだ。北海道が本来アイヌの大地であるのと同じように。
本日のつみ:コロニアリズム
2003/06/30 月 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『モンド』
漢字作文2コマ。
キャサリン・ヘプバーン死去。彼女の戦前の作品はあまり見ていないが、戦後日本で公開された作品のほとんどを見たと思う。とても好きな女優だった。ファンレターを出したいと思っていた唯一の女優だったけれど、英語が書けないまま、ついに出さなかった。『冬のライオン』『ベニスの夏の日』『黄昏』、どれもすばらしい作品、すばらしい演技だった。
昨日見た、併映作品「モンド」というフランス映画。
海辺の町にやってきて、皆になぐさめや癒しを与えた浮浪児モンドの話。最初画面に現れたときは、浮浪児とは思えないこぎれいな身支度にかわいい顔。こういうかわいい顔の男の子が家もなしに生き延びられるとは、なんてのんびりした町なんだろう。大都会なら、たちまちどこかの組織に誘拐されて、男娼としてどこかの金持ちに売り飛ばされてしまう。
警察は浮浪児を収容しようとやっきになる。「子供が学校にも行かずに町を徘徊するのは、教育上も治安上もよろしくない」からである。
不法就労のジャグラーや、ホームレスのダディや町のパン屋、金持ちのベトナム系ユダヤ人の老女。皆、モンドが大好きで彼を助ける。気まぐれにモンドは金のありそうな男に「僕を養子にしてくれる」と声をかけたりするが、彼を本気で養子にしてくれそうな老女には「養子にして」とは頼まない。
病気になったモンドは施設に送られたが逃げ出す。施設で暮らせば、食べ物はある。風呂に入れば清潔でいられる。でもそれがなんだっていうんだろう。自分で自分の生活を決定できることの幸せは、それを奪われたことのない人には想像できないのかもしれない。
モンドが駐車場で倒れるシーンなどいくつかの場面で、野良犬とイメージが重なる。もしかしたら、モンドとは「自分を人間の子供だと思っている野良犬」だったのかと思うけど、釣り人のおじさんから文字を習って、つづれるようになっていたので、やっぱり人間だったのかな。キャッチコピーは「現代のおとぎ話」だったので、よけいなことを考えずにモンドの自由な暮らしを見つめてやればいいのだろう。そしてそんな自由を許さない社会とはなにかも。
日本で、小学生くらいの男の子がホームレス生活をしていたら、「彼を養子にして引き取ろう」と思うより先に「この子をちゃんと児童施設に保護して教育をあたえてやるべきだ」ということになるだろう。
「うさぎよけのフェンス」「モンド」とも、人間らしい暮らしとは何か、人間が尊厳を持って生きるとはどういうことか、と見る者に考えさせてくれた。
本日のうらみ:パンは食えるが、我が不自由なくらし
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20150617
毎日仕事の帰りには、地下鉄のエレベーター、住まいの建物9階に上がるエレベーターの中で、後ろについている鏡に向かって「お仕事ご苦労さんでした。今日もいっしょうけんめい働いたね。がんばってきたね」と、声をかけてやります。誰もほかにいない時だけですけれど。
言ってくれる人ないから、自分で言って誉めるんです。
心の中で言うより、声に出して言ったほうが、脳への影響が大、と聞いたので、ちゃんと声に出しています。きっと脳内ホルモンが出てきて、元気な声で「ただいま」とドアを開けられます。
どっと疲れて帰ることもあるけれど、よどんだ声で「ただいま」と言ったのでは、楽しく晩ご飯が食べられないと思うので、できるだけ元気に。
単純な自己暗示法ですけれど、いいことばかりではない世の中で、せめて気分だけは落ち込まないように。明日もなんとか生きていけますように。
<おわり>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記6月(8)2003年の海のオルゴール
2003年三色七味日記再録を続けています。
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2003/06/28 土 くもりときどき小雨
日常茶飯事典>南蛮屏風と『海のオルゴール』
出光美術館の「京の茶陶展」を見た。サブタイトル「仁清・乾山を中心に」仁清は偽物騒ぎの一件しか知らないし、乾山は光琳の弟というしか知らない。
それに私が茶碗をみても、さっぱりどれがいいのか悪いのかわからないのであった。百円ショップのそれっぽい茶碗をガラスケースに入れて、「これは江戸期の知られざる名品です」と説明されれば、ほう、なるほどと思ってみるであろう。
収穫は屏風。酒井抱一の「十二ケ月花鳥図貼付屏風」作者不詳の「南蛮屏風」など。
南蛮屏風は『留学生のための日本史』のポルトガル人来航の説明に使われている。白黒のちいさな図版で、これまで犬だと思って見てきたのは、今回実物を見て、はじめて山羊だということがわかった。留学生に「これが本物」と見せたくて、絵はがきをさがしたが、教科書に載っている部分の絵はがきはなくて、南蛮船の部分がはがきになっていた。
出光美術館に何度かきたことがあったと思うが、ムンクとルオーがロビーにあったのは記憶にない。ムンクの「遺伝」というタイトルの絵。ひざの上に死んだ赤ん坊を乗せ、母親らしき女が泣いている。赤ん坊は胸に赤い斑点を浮かべ、やせこけている。単に病気の子供が死んだというより、「遺伝」とタイトルをつけられると、いっそうなんだか悲劇的なような気がする。
帰宅したらテレビの『海のオルゴール』を松雪泰子の竹内てるよ、池内博之のてつやでやっていて、娘と息子が見ていたから、いっしょに見た。モー娘。がでるというので、27時間テレビをみていたら、このドラマになっちゃったんだって。皇后が竹内の詩を引用したことからのドラマ化らしい。
出産したものの、てるよは脊椎カリエスのため、息子を他家へ里子に出すことになり、自分も婚家をでる。詩人として成功した後、てるよは必死に息子をさがす。息子はやくざ組織に入り、何度も犯罪を繰り返す。息子の尻ぬぐいを続けながら息子を待ち続けるてるよ。最後は息子の死を見届ける。
こちらはなんとも古めかしい典型的な「母モノ」。息子が何度罪を犯そうと、母は無限の愛を持って息子を待ち続け、受け入れる。これぞニッポンのハハなんである。このようにハハの愛が皇后のお墨付きで、存在するのであるから、ニッポンの息子どもは安心してマザコンしていられるのである。
ニッポン教とは、けだし「母の愛」がミオシエのおおもとであるなあ。大地母も阿弥陀の愛もすべてを許し受け入れる。
本日のイザナミ: 大地母イザナミを地下においやり、太陽神アマテラスのほうを至高神とした思想操作はいかに可能となったのか
2003/06/29日 日 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『裸足の1500マイル』
午後、息子と映画『裸足の1500マイルーうさぎよけのフェンス』を見た。
隔離政策によって母親と引き離された3人の少女が収容所を逃げ出し、母親のもとへ帰るまでの9週間の逃亡生活の話。そもそもアボリジニを主人公にした映画というのを初めて見た。実話によるストーリー。
最後に主人公のふたり、モリーとデイジー姉妹の本物がオーストラリアの大地を歩く姿がでると、涙がでた。モリーは結婚後も収容所に入れられ、再び逃亡する。しかし、モリーの生んだ娘は3歳のとき収容所行きとなり、モリーと娘は二度と会えなかったという。
収容所長のネビルはデビルというあだ名を持ち、「野蛮なアボリジニの中でも白人の血を分け持ったハーフを教育してやり、文明の光を与えてやるのが正しい道」と信じ込んでいる男。狭矮な白人キリスト教絶対主義が、世界中のマイノリティに果たした不正義を代表する男。
収容所でおとなしく教育され、「白人家庭の忠実な召使い」として働くようになたメイビスは、オーストラリアの大地で暮らすより幸福になれたか。「旦那様」の蹂躙におびえ、人間の尊厳を失いながら生きるしかなかったのに。
モリーは、頭のいい子だ。教育を受ければ、もしかしたらアボリジニ解放のために働ける人材になれたかもしれない。しかし、学校教育を受けさせるためにネビルたちが子供を選別する方法は「色がより白い方が優秀」という基準だった。
モリーは西洋式の学校教育を受け損ねたが、アボリジニーの伝統的な生活の知恵を身につけ、人間らしい尊厳を忘れることなく生きることができた。
現在、収容所への隔離生活を余儀なくされたアボリジニの中には、アイデンティティの不在のため心を病む人がいるのだという。オーストラリア政府は、彼らが人間としての尊厳を持って自分たちの文化を守って生きていける政策をきちんとつけるべきだろう。後からやってきて、勝手に入植し勝手にうさぎよけフェンスを張り巡らせたのは、白人なのだから。オーストラリアの大地は本来アボリジニのものだ。北海道が本来アイヌの大地であるのと同じように。
本日のつみ:コロニアリズム
2003/06/30 月 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>『モンド』
漢字作文2コマ。
キャサリン・ヘプバーン死去。彼女の戦前の作品はあまり見ていないが、戦後日本で公開された作品のほとんどを見たと思う。とても好きな女優だった。ファンレターを出したいと思っていた唯一の女優だったけれど、英語が書けないまま、ついに出さなかった。『冬のライオン』『ベニスの夏の日』『黄昏』、どれもすばらしい作品、すばらしい演技だった。
昨日見た、併映作品「モンド」というフランス映画。
海辺の町にやってきて、皆になぐさめや癒しを与えた浮浪児モンドの話。最初画面に現れたときは、浮浪児とは思えないこぎれいな身支度にかわいい顔。こういうかわいい顔の男の子が家もなしに生き延びられるとは、なんてのんびりした町なんだろう。大都会なら、たちまちどこかの組織に誘拐されて、男娼としてどこかの金持ちに売り飛ばされてしまう。
警察は浮浪児を収容しようとやっきになる。「子供が学校にも行かずに町を徘徊するのは、教育上も治安上もよろしくない」からである。
不法就労のジャグラーや、ホームレスのダディや町のパン屋、金持ちのベトナム系ユダヤ人の老女。皆、モンドが大好きで彼を助ける。気まぐれにモンドは金のありそうな男に「僕を養子にしてくれる」と声をかけたりするが、彼を本気で養子にしてくれそうな老女には「養子にして」とは頼まない。
病気になったモンドは施設に送られたが逃げ出す。施設で暮らせば、食べ物はある。風呂に入れば清潔でいられる。でもそれがなんだっていうんだろう。自分で自分の生活を決定できることの幸せは、それを奪われたことのない人には想像できないのかもしれない。
モンドが駐車場で倒れるシーンなどいくつかの場面で、野良犬とイメージが重なる。もしかしたら、モンドとは「自分を人間の子供だと思っている野良犬」だったのかと思うけど、釣り人のおじさんから文字を習って、つづれるようになっていたので、やっぱり人間だったのかな。キャッチコピーは「現代のおとぎ話」だったので、よけいなことを考えずにモンドの自由な暮らしを見つめてやればいいのだろう。そしてそんな自由を許さない社会とはなにかも。
日本で、小学生くらいの男の子がホームレス生活をしていたら、「彼を養子にして引き取ろう」と思うより先に「この子をちゃんと児童施設に保護して教育をあたえてやるべきだ」ということになるだろう。
「うさぎよけのフェンス」「モンド」とも、人間らしい暮らしとは何か、人間が尊厳を持って生きるとはどういうことか、と見る者に考えさせてくれた。
本日のうらみ:パンは食えるが、我が不自由なくらし
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20150617
毎日仕事の帰りには、地下鉄のエレベーター、住まいの建物9階に上がるエレベーターの中で、後ろについている鏡に向かって「お仕事ご苦労さんでした。今日もいっしょうけんめい働いたね。がんばってきたね」と、声をかけてやります。誰もほかにいない時だけですけれど。
言ってくれる人ないから、自分で言って誉めるんです。
心の中で言うより、声に出して言ったほうが、脳への影響が大、と聞いたので、ちゃんと声に出しています。きっと脳内ホルモンが出てきて、元気な声で「ただいま」とドアを開けられます。
どっと疲れて帰ることもあるけれど、よどんだ声で「ただいま」と言ったのでは、楽しく晩ご飯が食べられないと思うので、できるだけ元気に。
単純な自己暗示法ですけれど、いいことばかりではない世の中で、せめて気分だけは落ち込まないように。明日もなんとか生きていけますように。
<おわり>