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ぽかぽか春庭「伸びきり蕎麦屋談義」

2015-06-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150624
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記6月(2)伸びきり蕎麦屋談義

 私にとって最高のうどんは、母の手打ちうどんであり、最高の蕎麦は、父の手打ち蕎麦です。父は、母の死後、蕎麦打ちが趣味のひとつになり、やもめ暮らしのつれづれに自分で蕎麦を打つのを楽しみにしていました。蕎麦の実を知り合いの蕎麦栽培農家から分けてもらい、縁側に特注の石臼を出してゴリゴリと蕎麦の実をひきます。機械でひくのと異なり、どうしてもそば殻が混じってしまうので、茹であがりはかなり色黒な蕎麦でした。素人が十割蕎麦を打つのはとても難しいとのことで、つなぎに卵水ととろろ汁を入れてうつのですが、ぶつんぶつんと短くなった蕎麦でした。味はいいけれど、見た目が悪い。

  そんな器量悪い蕎麦を「また、蕎麦?」と言いながら食べていたけれど、父の死後、父の蕎麦ほど味がよい蕎麦にはめぐりあっていません。
 どんな老舗の蕎麦屋でも、十割蕎麦という看板が出ていても、父の蕎麦に比べれば、老舗も立ち食い蕎麦屋も五十歩百歩なのです。

 住まいの団地から徒歩10分くらいのところにある蕎麦屋、そこにあることは30年も前から知っていましたが、今まで一度も入ったことがありませんでした。
 6月19日の昼、午前中の用向きをすませてビルの外に出ると雨。傘も合羽も持っていたけれど、ちょうど昼時でもあるし、無理して雨の中を動き出さなくても、小止みになるまで待っていようと、ビルのとなりのその蕎麦屋に入りました。

 外観が古びていることは外から眺めて知っていましたが、店の中も相当な古び具合。足の悪いおばあさんが出てきて「いらっしゃい」と言う。昼時だけれど、店に客は私だけ。
 おばあさんがテーブルの上のメニューを指さしたので取り上げたら、ぼろぼろのメニュー表にまずびっくり。ビニールカバーのメニューがべたべたしている。イマドキこんなメニューおいておくことに驚きながら、とにかく、看板メニューらしい十割蕎麦とてんぷらを注文しました。セットで1400円。

 店内には古い芸人やタレントのサイン色紙類が所狭しと貼られていて、昭和のイメージ。ガラスケースの中に、狐面のコレクション。小上がりのテーブル3つのうち、2つは客が座るスペースがあるけれど、1つは雑然とものが積み上がっていて、「何年掃除していないんだよ」という雰囲気。

 エビ1本とピーマン半分のてんぷらがのった皿がきました。そばつゆもきたけれど、自慢のテンプラというので、塩を所望する。おばあさんは「この塩は名のある塩で、ほかの塩とは違う」というので、「どこの塩ですか」と尋ねたら「どこだっけな」と頼りない。テンプラに塩をふったが、塩の瓶の穴がつまっていて塩が出てこない。

 おばあさんが「このエビはいいエビなんです」と自慢するが、エビの衣がぼてっとしていて、おいしくはなかった。おばあさんは、「十割蕎麦出している店、この区ではまえは2軒あったけれど、今はうちだけ。うちのおにいちゃんががんばって出しているから」と、言う。店主は、おばあさんの息子だろうけれど、妹がいたのだろう。それで、自分の息子のことを子どものころのまま「うちのおにいちゃん」と呼んでいるのでしょう。

 しばし待つうちに、蕎麦せいろがきました。量はまあまあ。近頃の老舗蕎麦屋の盛りそばせいろときたら、私のくちだと2口3口で食べ終わるほどしかのっていないことが多い。
 色が白い蕎麦。味は、別段立ち食い蕎麦と変わりない。

 ほかに客がいないので、店主が出てきて蕎麦の講釈を始めました。店主、中年、小太り、テンパー頭。北海道のどこそこの蕎麦であること、石臼で挽いていることなどをとうとうと語ります。この店は100年前に創業した由緒ただしき店で、そこらの蕎麦屋とは違う、という自慢。

 私の父が石臼をごりごり手で回してひいた蕎麦は、どうしてもそば殻が混じってしまって色黒だったのに、この店のは、石臼でこんなに白くひけるのかとびっくり。
 あとでわかったことに、店主が石臼でひいたというのは、石臼風の機械挽きのことでした。

 女の人が店の入り口に立ちました。雨は小降りになっています。「すみません」と女の人は、道をたずねていました。店主は「ほら、道教えてほしいんだって」と、おばあさんをせき立てました。おばあさんは足が悪いので、店の入り口まで出て行くにも時間がかかります。女の人は、店から人が出てこないので、立ち去りました。おばあさんは女の人をおいかけて、店の外へ。
 「お兄ちゃん」が道案内を自分でしないで、足の悪い母親に言いつけたこと、私にはまず「親不孝」にうつりました。
 店主は、道案内をするより、私を相手に講釈を続けたかったのです。
 ここまでの店主蕎麦蘊蓄は、私がこれまで仕入れた蕎麦に関わる蘊蓄以上のことがらはありませんでした。私は蕎麦畑を見て育ったのです。

 やがて、蕎麦話は、全国の有名神社の参道にはうまい蕎麦屋が多いという話になり、神社のどれがいい神社でどれが悪い神社なのか、という話になりました。店主によれば、全国の神社は、よい神社と悪い神社に分かれているのだそうです。それでもまだ私は、小降りのうちに店を出るタイミングをはかりたいと外の雨を眺めながら、話半分に聞いていました。

 店主の話は、小中学生が事件をおこすのは、道徳教育をきちんとしていないからだ、それも日教組が教育を悪くしたからだ、というふうになっていきました。靖国神社はとてもすばらしい神社で、全国の小中学生をお参りさせるべきだ、と店主のご意見。
 安倍さんはちゃんと靖国神社にお参りしたいのに、中国とか韓国がいらぬおせっかいを言ってきて、共産党とかそれにのって反対するから、ことしもお参りできないんじゃないかなと、店主、残念がる。

 店主は政治も語り、安倍さんはがんばっているのに、憲法もなかなか改正できなくて困る、武装に反対する人たち、沖縄で中国漁船が珊瑚密漁をしているのをどうしてくれるんだ、と怒る。中国は武力で脅さなければラチがあかない国なのだそうです。
 日本の政治は、日本全国を神社の霊力によってタダしていくべきだ、いうふうになっていきました。

 「神社や日本の教育をちゃんと考えて、日本の代表として国連に行っている人がいるんだけれど、とてもすばらしい人なんだ」というところまできて、鈍い私も、ああ、蕎麦の話がしたいんじゃなくて、その「すばらしい人」の話をしたいのだ、と気がつきました。

 「その人、お名前はなんとおっしゃるのですか」とたずねると、カウンターのごちゃごちゃものが積み上がっている中から赤い表紙の本をひっぱり出して「この本を書いた人です」という。著者紹介を見ると、新聞の広告欄で著書の広告や経営している進学塾の広告でしょっちゅう見かける人でした。

 「この本さしあげます」というので、本をもらったことにお礼を言って立ち去ろうとしたけれど、店主は話しをやめずに、この著者がいかにすぐれた人物であるかをとうとうと語りだしました。霊界にも通じ、国際社会でも才能を評価されている人物なのだそうです。私は、本の最後の経歴欄を見て、「ああ、あの新興宗教の教祖やってる人だ」とわかったので、一度小やみになったのに、立ち去る機会を失ったことを後悔しながら、まだ降り続いている中、百円ショップで買ったビニールレインコートをひっかぶって、帰宅することにしました。2時間も店主の独演会「深○東○先生がいかにすばらしい人か」という講義をきいたのですから、十分おなかいっぱいです。
 2時間店主の話をきいたのに、雨やまず。蕎麦屋だけに、ツユはとぎれず。

 晩ご飯どき、もう一度この店の前を通ることになりました。出先に忘れ物をしたので、とりに行ったのです。(あちこちに忘れ物をするのは常習です)
 7時の晩ご飯時分でしたが、やはり客はひとりもいませんでした。店主が真ん中のテーブルで、「偉大な先生」の本を読んでいるのが見えました。

 「偉大な先生」の著書『強運』というタイトルの本、はじめのほうをぱらぱらと見たところ「強運を呼び込み繁栄するには、整理整頓掃除が肝要」と、書いてありました。
 ものが積み上がってごちゃごちゃの店内、ぼろぼろベタベタのメニュー。店主は、エライ先生の著書を読むより、まず掃除をすべきなんじゃないかしら。そうすれば、週末の晩ご飯時に、客がひとりもいない、という事態が少しは改善すると思うのだけれど。

 そして、通りかかった人が駅までの道を尋ねたとき、足の悪い老いた母親に道案内を言いつけるのでなく、さっと人に親切をほどこす「情けは人のためならず」を実践していれば、百年続いてきたと自慢する老舗を維持していけるんじゃないかしら。このままでは先代のころには、「うまい生蕎麦」と評判だったせっかくの老舗、近々つぶれるのかも。

 ネットの店評価には、「手打ちでもない蕎麦を手打ちと称して売るような店、先代にたいして恥ずかしくないのか。早くつぶれてしまえ」という激辛のコメントがのっていました。

 店主、ワー○ドメ○トという新興宗教にお賽銭つぎ込み続ければ、きっと強運がついてきて、また店が繁盛すると信じているんだろうな。

 私の周囲には、反核反戦反原発という考えの人が多く、正反対の考え方の人から直接話を聞くチャンスが少ないです。
 日本は完全武装して中国をやっつけるべきだとか、神社にお参りしない人が不幸な目にあうのだ、とか、霊界に通じているエライ人がいるのだ、とか、私の考え方とは異なる意見の持ち主の話を聞いていて、とても興味深く感じました。

 私、自分自身は不信心者だけれど、新興宗教の教祖やら会長やらに夢中になって帰依している人、きらいじゃありません。帰依する対象を持っている人は幸せだろうなあと、うらやましく思います。

 ご近所だし、しばらくして、店主が私に『強運』をくれたことを忘れた頃にまた食べにいってみよう。きっともう一冊『強運』をくれるんじゃないかしら。

 娘に本を見せたら「どうしてそういう怪しげな本、持って帰ってくるのよ」と叱られました。娘は大の宗教嫌いなのです。この「偉大なセンセー」の広告も見たことがあって、アヤシゲな顔と思っていたのですって。
 私は、宗教は別段好きでも嫌いでも無いけれど、仁戸田六三郎の一般宗教学と島薗進の新興宗教学はとても楽しく講義を聴きました。鰯の頭も信心から。

 梅雨時の蕎麦屋談義でした。

<つづく>
コメント (10)
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