
20180508
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(4)看板建築展 in 江戸東京たてもの園
若い頃から何度となく失敗挫折を繰り返してきた人生ですが、今度ばかりは納得いかない、理不尽なイジメとしか思えない挫折で、したたか打ちのめされました。
挫折には慣れているとはいえ、老いの身を蹴飛ばすやりくち。お友達同士ゴルフをいっしょにやれば、たちどころに○○案件とメモ書きがなされて、忖度してもらえる方々もいる世の中。なんのお知り合いもいない者は、泣くしかないんですね。
地盤看板鞄算盤の何バンもない者には厳しい世の中でした。世の中ってそんなもの。
と、しょげた気分を一新しようと散歩に出たのは連休2日目。4月30日、日曜日。江戸東京たてもの園に出かけました。久しぶりのたてもの園です。今回のテーマは、特別展示の「看板建築」に合わせた散歩。地盤も鞄もない身だけれど、せめて看板でもながめようかと。
前回は2013年の9月に「近代個人邸宅」というテーマで出かけて、デ・ラランデ邸、前川邸や小出邸を見ました。つぎは、2014年3月に教え子の両親が来日したときに母校案内のついでにたてもの園に出かけました。そのあと、1度でかけているはずですが、カメラを持って出るのを忘れたときは、私の頭に何月何日という記憶が残らない。
ぽかぽか春庭「江戸東京たてもの園」散歩の日記2014年
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/m/201401
江戸東京たてもの園。入園料金65歳以上200円。
入場料を払ったときは図録や音声ガイドは我慢、招待券入場の時は音声ガイド借りるか図録購入どちらか許す、という私的貧乏性ルールですが、今回は、入園料200円のところ、看板建築のパンフレットは無料でした。ゆえに、図録をもらう。20ページほどのパンフレットでしたが、内容は充実していました。(展示担当、阿部由紀洋学芸員&米山勇研究員)
看板建築ということばを最初に目にしたのは、江戸東京博物館の現館長である藤森照信の「建築探偵シリーズ」から。
私が近代建築に目を向けだしたのは、1994年に大連や長春の「近代建築遺産」を目にしてからのことですから、看板建築を知ったのも、90年代の後半くらいからでしょうか。
藤森は、1975年10月に日本建築学会大会ではじめて「看板建築」という呼び名を提唱しました。(関東大震災後の呼び方は「街路建築」でした)
ただでもらったパンフレット。
表紙の裏1ページ目は「ごあいさつ」で、2ページ目に藤森照信が初めて「看板建築」について言及した論文のコピーが出ていました。学会の論述集、活字印刷じゃなくて、鉄筆の謄写印刷でした。
看板建築と命名したのは、堀勇芳だそうです。
江戸東京たてもの園では、設立当初から看板建築を積極的に保存してきました。下町ゾーンに並んでいる建物を当たり前のように眺めてきましたが、看板建築の特集を組んで展示コーナーに資料が並ぶのを、私は初めて見ました。
看板建築とは。
1923年の関東大震災で、下町の木造商店群はほとんどが焼失しました。焼失した伝統的な町屋(1階表通り沿いが店。1階奥や2階が住まい)に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居である建物を指します。多くは木造ですが、道路に面した部分は、銅板葺などが採用され、屋根はマンサード屋根を取り入れるなど、洋風の外観を模しています。
住まいとしては和風住宅なのですが、表に面した店構えだけは、洋風のビルのように見える。
看板建築 武居三省堂

関東大震災関連の地図や焼けたお皿などの展示は、両国の江戸東京博物館や横網の震災復興記念館でみてきたから、ここはすっとばして歩く。展示室には、移築復元時の設計図や内部構造までよくわかる建物模型など、貴重な展示が並んでいました。
内部の構造がよくわかる看板建築の模型(画像借り物)

上記模型の看板建築(復元移築されている植村邸)

施主は、大工たちにいろんな注文をつけ、さまざまな意匠がとりいれられました。植村邸の屋根中央のデザイン

模型展示や設計図のあたりの展示は、ゆっくり見たいと思ったのですが。展示室係員を相手に大きな声で話しているおじさんがいました。「いやあ、こういう建物、私が子供のころには、近所にいっぱいあってさあ」と、実物を見て育ったということを、係員に訴えています。
係員が、ほかの仕事があるそぶりでこのおじさんのもとを離れたら、私の横に来て、「こういうの、うちの近所では通りが全部そうだったよ」と、話し始めました。
看板建築が町並として実在していたころの町のようすや、建物の中に買い物などで入ったことの思い出を話してくれるのなら、私も聞くにやぶさかではない。しかし、おじさんは自分自身の「人生自慢話」に話を持って行きたいのがミエミエの文脈。「たてもの園の看板建築をごらんになりましたか」とたずねると、「いやあ、昔の建物の本物をみているからさあ」と、建築そのものには興味がなさそうです。話の切れ目をみつけて、早々に「貴重なお話をありがとうございました」と、おじさんの横から抜け出る。そうしたら、もう一度係員のおばさんのところに行って、話はじめました。「こういう建物、いっぱいあってね」
展示室を出てから、こういうおっさんのお話をちゃんと「傾聴」する基本ができていないことに、ちょっと自分を責める気持ち。
ほんとうは、お話ししたい人の話をじっくり聞くことが「退職後は、自分の話をじっくり聞いてくれる人がだれもいなくなってしまったおじさん」への福祉活動だとわかっているのですが、どうも私には我慢が足りない。小料理屋とかスナックのママさんなら、同じ自慢話を何回でもきいてあいずちをうち、「たあさん、すごい人なのね」くらいのおあいそは言ってあげることができ、よほど優秀な傾聴ボランティアです。おっと、酒代には傾聴分も含まれているので、有償ボランティアか。
私が急いで展示室を出てしまったのは、たてもの園のあとは飯田橋ギンレイにまわり、映画を見てから帰るというGMダブルヘッダーの計画だったから、と言い訳しておく。
実をいうと、春庭も、このおっさんと同じように、表通りに並んでいた看板建築を眺めて育ったひとりです。昭和の町で育ったこどもはほとんどがそうだったのではないかと思います。ただ、子供のころの思いとしては、「表側だけ洋風のビルみたいに見えるけれど、横っちょからみれば、ちゃちな木造の平凡な建屋」というのを見て「表側だけ立派そうに見えるようにしている見栄を張った建物」と思ってみていました。
看板建築が、保存していくべき価値のある建築物なのだと、皆が知ったのは、藤森たちの保存の訴えと、江戸東京たてもの園への移築保存が始まってからのことではないかと思います。博物館に保存されるようになってようやく「おや、あのまがいものビルの建物も、建築史上からみると残しておくべき建築物だったのだなあ」と気づいたしだい。
現在のすまいのそばで見かけた看板建築のひとつ。隣の木造と右側の看板建築はひと棟つづきの建物ですが、右側の店舗だけビル風看板建築になっています。

看板建築解説パンフレットによると。関東大震災のあと、看板建築を引き受けた大工さんは地方出身者が多かったそうです。東京の大工たちは、自分自身が被災者で、大工道具なども焼けて仕事がすぐには始められない状態だったため、東京の復興には地方の大工が駆り出されました。東京での仕事を終えた地方の大工たちは、見おぼえた看板建築を「これが東京最新のたてもの」としてそれぞれのふるさとに建てていきました。そのため春庭が育った田舎町にも看板建築が並んだのです。
耐火性を増すため銅板でおおわれた看板建築

ギリシャ風の柱をつけた看板建築村上精華堂。本物のギリシャ建築では柱は必ず偶数になるけれど、3本の柱にしているところが「和風ギリシャ」の味付け。


下町ゾーンにならぶ看板建築

看板建築の構造や意匠については、無料パンフレットにくわしいほか、さまざまなサイトに述べられています。
最近は「町おこし」のひとつとして、このようなレトロ建物をウリにして、街並みを残そうとする自治体もでてきました。
さびれてしまった田舎の町のほうが、看板建築も数多く残されているのではないかと思います。新しい建物に建て直すこともできないままさびれてしまい、かえってそのほうが価値が出てきた、というのも皮肉なもの。
1923(大正23)年の関東大震災後、昭和の町にぞくぞくと建てられた看板建築のたてもの。それをなつかしいと思うか否かはそれぞれの感想でしょうが、昭和の日を楽しむ観覧客は老若男女が大勢いました。荒物屋や乾物屋の店先で、孫に「おじいちゃんが子供のころのお店はこんなふうだったよ」なんて、説明しているおじいさんもいます。
あのおっさんの語りをじっくり聞いてくれる「昭和の暮らしを知りたい子供や学生」がいたらちょうどいい語りの場になるのになあ。ともあれ、今回はざくっと看板建築を眺めて飯田橋へ。
昭和の日ランチは、デラランデ邸の中で武蔵野茶房のカレーライス&生ビール。計1500円。ここも祝日の混みよう尋常でなく、かなり待ちました。2階を見学しつつ待ちましたが、レストランを利用しない観覧者には、混みあう日には1階のレストラン内部は見学しづらいのではないか、と、思いつつカレーを食べました。

デラランデ邸

飯田橋への急ぎ足。バス停に向かって横切った小金井公園のなかに、スケッチに余念ない日曜画家たち、散歩する老夫妻、シートを広げておべんとうを食べる親子連れ、みなゆったりと楽しんでいるようすが、一人散歩のこちらの気持ちもゆったりとさせてくれました。
そろばんも地盤もないけれど、ま、看板建築見たから、看板はクリアだな。ん?違うか。
鞄には札束など入っていなくて、駅前でもらったティッシュしか入っていないけれど、あしたからまたがんばろう。
追記)地盤看板鞄がないため挫折したというと、選挙に落ちた人みたいですから、訂正。いっしょにゴルフするお友達(地盤看板鞄を有し、何も言わなくても以心伝心で、「〇〇案件」なんていうメモが出回るお友達)がいないための挫折です。名誉校長になってくれる夫人に100万円の寄付もしなかったし。
「〇〇案件」てなメモをもらうとたちどころに許認可が出て4月には開学できんですけれど。
春庭案件は一から出直しです。
<おわり>