20200416
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記春なのに(3)ペストの街
食品購入以外の外出はしない週末。
日曜日は、テレビで「100分で名著」を見ました。伊集院光司会の番組。伊集院光好きです。
読んでないけど、読みたい気はあるという本が取り上げられているとき、ときどき見る番組です。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』とか、読みたいと思ってもなかなか手が出ないとっつきにくい作品のとき番組を見て、「ちょいと読んだ気になる」。ちょいと読んだ気になったあと、本当にその作品を読み始めるというのが正しい視聴法なのだろうけれど、『全体主義の起源』まだ読んでいません。
今回視聴した作品は、カミュ (1913- 1960)の「ペスト」。
2018年に放送された4回分を4月11日(土)【Eテレ】午後3:00~4:36にまとめて再放送されました。録画して視聴。
『ペスト』読んでいませんでした。カミュで読んだのは『異邦人』だけ。異邦人ということば、歌のタイトルにもなったエキゾチックな響きがあってとっつきやすいのに対して、「ペスト」じゃ、なにやら恐ろし気な。
ペストに見舞われたフランス植民地下のアルジェリア。封鎖されたオランという小さな町で、「保健隊」に参加した人々、放火や略奪に走る人、ペストの厄災の中でうごめく人々の姿を見つめ記録した小説です。
鼠の死からはじまったペスト。オラン市上層部の人々は事態を直視したがらず、自分に責任がふりかかることを避けているだけ。そのうち、みるまに死者が増加します。ついには政府からオラン封鎖が決定されます。死者が出るなら、オラン市内だけになるように。オランはフランスから追放されたのです。
「国家とか神とか、大きなものに身をゆだねてペストと戦うヒーローになるのではなく、誠実に自分の職務を遂行すること」を信条として、街を守る保健隊に身を投じた医師リウー。病人の看護、死者の埋葬、、、自分にも厄災が降りかかってくるかもしれない職務です。
その他の保健隊加入者は。風采のあがらない小役人グルー。旅人タルーたち。
新聞記者ランベールは、パリにいる恋人の元にもどりたいと、街を出ていく手はずを画策します。ランべールは、法から逃げ回っている密売人コタールに町を出ていく手はずを頼みますが、脱出をやめ、保健隊に加わります。
それぞれの事情を描写して、市民たちのペストへの向かい方が描かれます。
神父パヌルーは「この厄災は神が人に下す罰なのだ」と考えます。保健隊の人々は、実践的な行動の中で連帯を作り上げていきますが、幼いオトン少年(予審判事の息子)のペスト罹患と死をきっかけに、さらに深くペストと向き合うことになります。
神が罰するはずもない無垢な少年の死に動かされた人々たちは、「心のうちに持つペスト」について考えていきます。
旅行者タルーは、自分たちが人を殺す側に立っていることへの自覚のなさを考える。システムの中で死刑や戦争を肯定するのも、自覚しない「内なるペスト」によって殺人者となっていると、タルーは考える。
フランス文学者の中条省平は、「カミュは42歳の若さでノーベル文学賞を受けたけれど、実は、フランスで食い詰めアルジェリアに入植した貧しい家の出身であったこと、家の中に文字が読める人がいない、という家庭環境から苦学して新聞記者になったこと、大戦中はナチスドイツへのレジスタンスとして行動したこと」などを解説していました。
中条は「自分の人生への疑念を生じさせるものが、すべてペストなのだ」と言います。
「ペストを認識すること。ペストに襲われた人々の記憶を書き残すこと。忘れないこと」とペストの中に書かれていることは、レジスタンスの戦いに倒れていった人々を忘れないでいようと思っているカミュ自身の感じたことだと思います。
ゲストの内田樹は、ナチスドイツ占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事「後手に回り続ける行政の対応、人々の相互不信、愛する人との過酷な別離、精神も肉体も牢獄に閉じ込められたような状況」を1947年に小説に描くにあたって、ナチス協力者への非難などを直接描か0ず、戦争の隠喩として「ペスト」を出したのだ、といわれていることなどを述べていました。
カミュは、戦時中はレジスタンスとして戦争協力者たちから命を狙われる立場であったにもかかわらず、戦後は戦争協力者への処罰を望む世論に反抗し、戦争協力者の助命に紛争しました。殺された側が立場が逆転したとき殺す側に回るのでは、次にまた逆転したとき殺される、この負の連鎖を断ち切らなければならないのです。
「自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考のパターンが「ペスト」なのだ」というのが、内田の『ベスト』読解です。
過酷な占領下で、横行した裏切りや密告、同胞同士の相互不信、刹那的な享楽への現実逃避、愛するものたちとの離別等々。カミュ自身がレジスタンス活動の中で目撃した人間模様を『ペスト』に描き出しました。
オトン少年のような「罪なき人々」さえ死んでいくこと。「災害や病気などの避けがたい苦難」「この世にはびこる悪」
私たちの人生は「不条理」としかいいようのない出来事に満ち溢れている。「ペスト」は、私たちの人生そのものの隠喩ともなっています。
カミュは世論に反して戦争協力者への助命を行い、無差別テロに走ったアルジェリア独立戦争への非協力を表明しました。どちらの側からも非難され袋叩きになりながらも、それに抗い「暴力と殺人」は、どんな場合であれー戦争も死刑制度もー悪なのだという反抗を曲げなかったカミュ。
『反抗的人間』の中で、カミュは「われ反抗す、ゆえにわれらあり」と書いたのち、自動車事故で死去(享年46)。
ニュースによると、『ペスト』は今、世界中の本屋で一番の売れ筋だそうです。外出禁止が続く中、おうちで『ペスト』を読んで過ごすのもいいかも。
このような世相であるからこそ、人間の尊厳を守っていきたいし、人と連帯していきたい。
「100分で名著」で「読んだ気」になるだけじゃなく、ほんとに読まなくちゃという気になってきました。
人と会う機会を8割減らせば感染拡大にはならないで済む、というお達しなれども、私が一日に顔を合わせる人は、もともと娘のほかはほとんどなし。息子にはメール。夫とは固定電話連絡(今どき、ケータイを持たない主義の夫なので)。
家族とも食事時間をいっしょにしないほうがいい、ということですが、ご飯くらいは娘といっしょに食べたい春庭です。
「見続けること認識すること記録すること」これが、私に今できることかなと思っています。
<おわり>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記春なのに(3)ペストの街
食品購入以外の外出はしない週末。
日曜日は、テレビで「100分で名著」を見ました。伊集院光司会の番組。伊集院光好きです。
読んでないけど、読みたい気はあるという本が取り上げられているとき、ときどき見る番組です。ハンナ・アーレント『全体主義の起源』とか、読みたいと思ってもなかなか手が出ないとっつきにくい作品のとき番組を見て、「ちょいと読んだ気になる」。ちょいと読んだ気になったあと、本当にその作品を読み始めるというのが正しい視聴法なのだろうけれど、『全体主義の起源』まだ読んでいません。
今回視聴した作品は、カミュ (1913- 1960)の「ペスト」。
2018年に放送された4回分を4月11日(土)【Eテレ】午後3:00~4:36にまとめて再放送されました。録画して視聴。
『ペスト』読んでいませんでした。カミュで読んだのは『異邦人』だけ。異邦人ということば、歌のタイトルにもなったエキゾチックな響きがあってとっつきやすいのに対して、「ペスト」じゃ、なにやら恐ろし気な。
ペストに見舞われたフランス植民地下のアルジェリア。封鎖されたオランという小さな町で、「保健隊」に参加した人々、放火や略奪に走る人、ペストの厄災の中でうごめく人々の姿を見つめ記録した小説です。
鼠の死からはじまったペスト。オラン市上層部の人々は事態を直視したがらず、自分に責任がふりかかることを避けているだけ。そのうち、みるまに死者が増加します。ついには政府からオラン封鎖が決定されます。死者が出るなら、オラン市内だけになるように。オランはフランスから追放されたのです。
「国家とか神とか、大きなものに身をゆだねてペストと戦うヒーローになるのではなく、誠実に自分の職務を遂行すること」を信条として、街を守る保健隊に身を投じた医師リウー。病人の看護、死者の埋葬、、、自分にも厄災が降りかかってくるかもしれない職務です。
その他の保健隊加入者は。風采のあがらない小役人グルー。旅人タルーたち。
新聞記者ランベールは、パリにいる恋人の元にもどりたいと、街を出ていく手はずを画策します。ランべールは、法から逃げ回っている密売人コタールに町を出ていく手はずを頼みますが、脱出をやめ、保健隊に加わります。
それぞれの事情を描写して、市民たちのペストへの向かい方が描かれます。
神父パヌルーは「この厄災は神が人に下す罰なのだ」と考えます。保健隊の人々は、実践的な行動の中で連帯を作り上げていきますが、幼いオトン少年(予審判事の息子)のペスト罹患と死をきっかけに、さらに深くペストと向き合うことになります。
神が罰するはずもない無垢な少年の死に動かされた人々たちは、「心のうちに持つペスト」について考えていきます。
旅行者タルーは、自分たちが人を殺す側に立っていることへの自覚のなさを考える。システムの中で死刑や戦争を肯定するのも、自覚しない「内なるペスト」によって殺人者となっていると、タルーは考える。
フランス文学者の中条省平は、「カミュは42歳の若さでノーベル文学賞を受けたけれど、実は、フランスで食い詰めアルジェリアに入植した貧しい家の出身であったこと、家の中に文字が読める人がいない、という家庭環境から苦学して新聞記者になったこと、大戦中はナチスドイツへのレジスタンスとして行動したこと」などを解説していました。
中条は「自分の人生への疑念を生じさせるものが、すべてペストなのだ」と言います。
「ペストを認識すること。ペストに襲われた人々の記憶を書き残すこと。忘れないこと」とペストの中に書かれていることは、レジスタンスの戦いに倒れていった人々を忘れないでいようと思っているカミュ自身の感じたことだと思います。
ゲストの内田樹は、ナチスドイツ占領下のヨーロッパで実際に起こった出来事「後手に回り続ける行政の対応、人々の相互不信、愛する人との過酷な別離、精神も肉体も牢獄に閉じ込められたような状況」を1947年に小説に描くにあたって、ナチス協力者への非難などを直接描か0ず、戦争の隠喩として「ペスト」を出したのだ、といわれていることなどを述べていました。
カミュは、戦時中はレジスタンスとして戦争協力者たちから命を狙われる立場であったにもかかわらず、戦後は戦争協力者への処罰を望む世論に反抗し、戦争協力者の助命に紛争しました。殺された側が立場が逆転したとき殺す側に回るのでは、次にまた逆転したとき殺される、この負の連鎖を断ち切らなければならないのです。
「自分が善であることを疑わず、自分の外側に悪の存在を想定して、その悪と戦うことが自分の存在を正当化すると考えるような思考のパターンが「ペスト」なのだ」というのが、内田の『ベスト』読解です。
過酷な占領下で、横行した裏切りや密告、同胞同士の相互不信、刹那的な享楽への現実逃避、愛するものたちとの離別等々。カミュ自身がレジスタンス活動の中で目撃した人間模様を『ペスト』に描き出しました。
オトン少年のような「罪なき人々」さえ死んでいくこと。「災害や病気などの避けがたい苦難」「この世にはびこる悪」
私たちの人生は「不条理」としかいいようのない出来事に満ち溢れている。「ペスト」は、私たちの人生そのものの隠喩ともなっています。
カミュは世論に反して戦争協力者への助命を行い、無差別テロに走ったアルジェリア独立戦争への非協力を表明しました。どちらの側からも非難され袋叩きになりながらも、それに抗い「暴力と殺人」は、どんな場合であれー戦争も死刑制度もー悪なのだという反抗を曲げなかったカミュ。
『反抗的人間』の中で、カミュは「われ反抗す、ゆえにわれらあり」と書いたのち、自動車事故で死去(享年46)。
ニュースによると、『ペスト』は今、世界中の本屋で一番の売れ筋だそうです。外出禁止が続く中、おうちで『ペスト』を読んで過ごすのもいいかも。
このような世相であるからこそ、人間の尊厳を守っていきたいし、人と連帯していきたい。
「100分で名著」で「読んだ気」になるだけじゃなく、ほんとに読まなくちゃという気になってきました。
人と会う機会を8割減らせば感染拡大にはならないで済む、というお達しなれども、私が一日に顔を合わせる人は、もともと娘のほかはほとんどなし。息子にはメール。夫とは固定電話連絡(今どき、ケータイを持たない主義の夫なので)。
家族とも食事時間をいっしょにしないほうがいい、ということですが、ご飯くらいは娘といっしょに食べたい春庭です。
「見続けること認識すること記録すること」これが、私に今できることかなと思っています。
<おわり>