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20210418
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2021ステイホームじゃないシネマ(2)フェアウェル别告诉她
中国の東北地方(旧満州)の首都新京だった長春に、3度単身赴任しました。1994年、2007年、2009年。半年ずつですから、長春暮らしは合計で1年半。私にとって、大事な思い出の土地です。
長春の祖母を訪ねる中国系アメリカ人女性の物語、というので、なつかしい長春が映ればいいなと思って見ました。
ニューヨークに暮らす中国系アメリカ人が祖母を訪ねて長春ですごすストーリー、これは一人でも見ようと思っていたら、1994年10歳だった夏休みの1ヶ月を長春ですごした娘も見たいという。長春の街のようすはほとんど覚えていないけれど、主役のビリーを演じたオークワフィナを見たいのです。娘が見たいちばん最近のディズニーアニメ『ラーヤと龍の王国』の中、ラーヤを助ける龍の化身シスーの声を担当していたのがオークワフィナです。オークワフィナは、「フェアウェル」の演技で、ゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞しています。
中国語タイトルの「别告诉她」は、「彼女に言ってはならない」という意味です。
長春で生まれたビリーは、幼いときにアメリカに移住し、ニューヨークで育ちました。両親と話す言葉も英語になっています。がんばってアメリカ社会に適合しようと努力してきたビリーですが、期待していたグッゲンハイム奨学金を得ることができず、将来に希望を持てなくなっていました。
そんなとき、両親は父方の祖母(ナイナイ)のもとへ里帰りをすることになったのですが、ビリーは連れて行かないと言います。ビリーは気持ちをそのまま表情に出してしまう子なので、ナイナイには会わせられないと。
ナイナイは肺癌で余命数ヶ月の診断だったのですが、家族はこの診断を秘密にして「良性腫瘍だった」ということにしていたのです。真実を知らせれば、死への恐怖から余命が短くなるおそれがあります。秘密のままにしておいて、お迎えが来るその日まで、希望を持ってくらしたほうがよい、という一族の判断でした。ナイナイ自身も夫が末期の病気で亡くなるまで嘘をつきとおしていたと、ビリーは伯父から知りました。
一族が一堂に集まる口実として、ビリーの従兄弟ハオハオ(ビリーの伯父の息子)が結婚する、ということにして一族がナイナイが住む長春に集結。
ビリーはナイナイに会わずにおられず、あとから長春に到着します。
以下、ネタバレを含む紹介です。
長春に集まった一族
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ナイナイに病状を伏せるため、親族顔合わせの食事会も結婚式もドタバタしながら進みます。ビリーの伯父と従兄弟ハオハオは、日本に移住し、ハオハオの花嫁を演じてくれるアイコ(水原碧衣)は日本人。中国語は話せないので、ナイナイにほんとうのことを話す心配はありません。
結婚式シーンでおかしかったのは、ハオハオとアイコが余興としてデュエットする歌が「竹田の子守歌」。アイコは日本人という設定なのに、この哀愁に満ちた歌を選ぶところ、中国についてはよく知っているルル・ワン監督も、日本の結婚式での定番ソングまでは気が回らなかったのか、それとも、この結婚式は偽物だから、ナイナイとの悲しい別れを予想してのアイコの選曲ということになっていたのか。
ビリはニューヨークに戻らず、長春に滞在してナイナイともっと時間を過ごしたいと望ますが、ナイナイはそれを許さず、ビリーはビリー自身の人生を生きる必要があると諭します。ビーリがグッゲンハイム奨学金を受けられなかったことをナイナイに打ち明けたとき、ナイナイはビリーに「雄牛が部屋の隅に際限なく角を突っ込む」のではなく、心を開いてこの失敗にとらわれないように勧めます。ナイナイは、「人が何を成し遂げたかではなく、人がそれらをどのように行うかが人生なのだ」と、ビリーに伝えます。
一度は具合が悪くなって皆を心配させたナイナイでしたが持ち直し、一族はアメリカへ日本へと戻っていきます。
ルル王監督が経験した一族の話を脚本にまとめた、というストーリー。西欧目線で中国文化を描くのではなく、中国の生活文化をきちんと描いているところがこの映画のよい所と思います。一族そろっての食事風景。墓参りにプロの「泣き女」を雇うところなど。
「ナイナイに真実を告げないのはアメリカなら違法行為だ」というビリーに、イギリス留学帰りの若い医者は「ここはアメリカじゃない。私の祖母にも病状を伝えないで、祖母は安らかな最後だった」と言う。伯父さんも、「アメリカじゃ、命は自分ひとり、個人のものなんだろうけれど、中国では命は先祖代々受け継いだもので、自分一人の命じゃない。ひとりの命を一族で守る」と諭す。「中国との死生観の違い」は、この映画のキモ。
泣き笑いのうちにビリーは中国をあとにし、忙しいニューヨークの生活に戻ります。失意だったビリーは、ナイナイから生きる希望をもらって立ち直り、暮らしています。そしてナイナイは、一族の予想、映画を見ている人の予想に反して、、、、。
「ある人の命と生涯は、個人ひとりのものではなく、先祖代々から受け継がれ、一族みなで支え合い共有するもの」という感覚がどこまで伝わったのかなあ。『ルーツ』が大ヒットしたのですから、自分の先祖を知りたい、という感情は白人黒人を問わずアメリカにもあるとは思うのですが。
自分の人生はけっして自分一人で作って行けるのではなく、過去の人々からも現在を共に生きている人々からも多くを受け取り、また自分も他者に与えることで自分の生を作っていくという感覚は、「長く使った道具は付喪神になる」という感覚と同じく、なかなか個人主義自己責任一辺倒の社会にはわかってもらえないかも。
ルル王監督は「私は『家族と私の関係』と『同級生と私の関係、同僚と私の関係、私が暮らす世界と私の関係』が別物であるように感じていました。その分裂こそ、移民や2つの文化を行き来しながら生きる者の本質です。( Directors to Watch: Lulu Wang Shows Another Side of Awkwafina in ‘The Farewell’”. Variety (2019年1月4日). )」と語っています。
死んだあとは、煉獄で待ち続け、最後の審判によって天国地獄に振り分けられるという唯一神の世界観と、東洋の、ことに仏教やイスラム教などが伝播する前の土着の死生観とは、互いに感覚が違うものなのだろうと感じます。
ミャンマーの小乗仏教では、完全に「輪廻思想」が定着しているので、亡くなったあとの亡骸は、そこらに適当に埋められ、墓は作りません。霊が抜けたあとの遺骸はどうでもよく、霊がどうなるかが問題。小乗仏教では、人の霊は生まれ変わります。亡くなった人は生前の行いによって、より「徳の高いお坊様」に生まれるのが最上、最悪は虫ケラかなんかになってしまう。これって、輪廻を否定して仏教をおこした釈迦牟尼の思想に反すると思うのだけれど、みな熱心にお釈迦様に「来世のよりよい転生」を祈っていました。おかげで、ミャンマーの人みなさんに親切にしてもらうことができました。外国人教師にいじわるなんかしたら来世はゴキブリですから。
唯一神の世界観だと。
人類が「神」という観念を作り出してから、人間の総人口は1082億人に上り、最後の審判で父と子で振り分けるのは大変な作業量だろうなあと、小人物の私などは、神様の労働量はどれほどになるのかと心配してしまう。まあ、父と子のほか聖霊とかがお手伝いをするとして、ブラック労働になるは必定。
朝6時40分に家を出て、8時半から夜6時まで働き、帰宅は夜8時というブラック労働を続けている71歳から見ても、御年2000歳の方にはきついだろうなあと。
心配は無駄じゃ。たぶん、1082億人ひとりひとりにICチップスのようなタグが付いていて、いざとなれば、万能の神は一瞬杖を振り下ろせば天国行き地獄行きが振り分けられるのかも知れない、と、凡人は想像しています。
煉獄では、天国へ行けそうなタグを高値で買い取ろうというヤカラも出たりして。地獄の沙汰も金次第。
仏教伝来前の日本古来の死生観は、神仏習合後も民衆レベルでは大きな変化はなかった、と民俗学や古神道研究者は考えているようです。たとえば、柳田国男『先祖の話』など。(『先祖の話』読んでないけれど、「100分で名著」見て読んだつもりになった)
柳田が説く古来の死生観では、亡くなった人の魂は墓の中でじっとしているのではなく、子孫の周囲をめぐり、子孫を守る守り神として生き続ける、というのです。このことは「ご先祖様になる」と表現されます。
私の感覚もこの「古来のアニミズム的死生観」に近い。父も母も姉も亡くなってしまったけれど、私の周囲にいて、いつでも私や一族を見守っていると、思うことが心の安らぎになっています。まあ、鰯の頭も信心から。
ビリーがこののち、どんな死生観を持ち、どんな生涯を送ろうとするのか、わかりませんが、ナイナイとの長春の日々がビリーに力を与えたであろうことはわかります。よい映画でした。
さて、長春の街のロケは、3度中国で暮らした私にも、幼い頃の記憶しか無い娘にも、まったく「思い出の中の街」は出てきませんでした。
私が宿舎にしていた「大学の外国人教師用宿舎」は、もともと旧満州国中堅官僚向け官舎だったそうで、1930年代に建てられたという建物でしたから、「まもなく取り壊されて新しい宿舎ができる」という話は知っていました。
2007年に冬期アジア大会が開かれた長春。2007年冬期アジア大会、2008年の北京五輪の前後で、長春も北京も大きく街が変わりました。東京オリンピック前後の東京の変化なんてもんじゃないくらい。土地は全部政府のものだから、古い建物を壊すのに躊躇がない。住民を遠慮無く追い立てて、街は一新。
なつかしい長春の街は映画で見ることができませんでしたが、「The Fairwell」は、とてもよい映画でした。
<つづく>