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ぽかぽか春庭「戦争画と戦争じゃない画 in 近代美術館」

2021-05-04 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210504

かぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(2)戦争画と戦争じゃない画 in 近代美術館 

 東京近代美術館常設展の中のコーナー。

 画家達が描いた戦争画と、戦前戦後に描いた「戦争じゃない絵」をひとつの部屋に並べて展示してありました。今までに見たことがなかった企画。学芸員のだれかが提案した展示方法なのだろうと思います。

 戦時中、多くの画家が戦地に赴き、戦意高揚を目的とした絵を描き、軍事態勢に協力しました。 協力しなかった画家は、靉光(1907-1947)のように最前線に送られて、戦死戦病死、という運命が待っていました。

 靉光が軍の要請を受けて「私には戦争画は描けない」と言ったのは、反戦思想や軍に反対する思想で言ったのではないと思います。自分の画風に戦争を主題にした絵は合わないと言ったのだろうと想像するのですが、軍の意向に逆らうことなどできなかった時代。靉光は忖度なく最前線へ送られました。

 靉光「馬」1936

 靉光の馬は、疲れ切り悲しんでいるように感じられます。たしかにこの馬では、勇ましく戦争に加わっていく軍馬を描くことはできない画風かと思います。しかし、戦争画は戦闘シーンを描くだけでなく、兵士が休息している様子を描いた画家もいたのですから、靉光もうまく立ち回って戦線の後方で自分に描ける絵を描いたら40歳で戦病死という目に遭わなかったのかも、と思います。でも、それができない心情の持ち主で「私には戦争画は描けない」と正直に吐露してしまう人だったのだろうとも思います。だからこそこの哀しみの馬が描けたのだろう。 

 敗戦後、画家の戦争協力糾弾の矢面に立たされた藤田嗣治(1886-1968)。父親が陸軍幹部だった藤田は、積極的に戦意高揚のために文章も書き、戦争画も描きました。日本画壇は、陸軍美術協会理事長をしていた藤田ひとりに戦争協力責任を負わせることで事態を収拾。ほとんどの画家が戦争画を描いた中、他の画家達が戦争協力の責任をとらされることはありませんでした。日本画壇に絶望した藤田は、日本を脱出してフランスに帰化。レオナール藤田となりました。 

 藤田嗣治「大柿部隊の奮戦」1944


 藤田嗣治「パリ風景」1918

 1913に渡仏したあと、パリの寵児となるまでの不遇な時代の絵。パリといっても、華やかな繁華街から離れたうら寂しい光景です。

 戦後、フランスに滞在するようになったのちに描いた少女の絵

 藤田嗣治「少女A」1956


 戦前から藁葺き屋根の田舎風景を描いてきた向井潤吉(1901-1995)も戦時中は戦争画を描きました。戦後はふたたび藁葺き茅葺きの家を描き続けました。

 向井潤吉「バリッドスロン殲滅戦」1944

 向井潤吉は、日野葦平とともにインパール作戦に従軍、命からがら脱出しました。(朝ドラ「エール」では主人公とともにビルマに慰問団として滞在した画家と作家として登場します。主人公の恩師はインパールで戦死)

 向井は、戦後の美術雑誌のインタビューで、「戦争画を描いて構図や色使いをさまざまに研究でき、絵の技術向上に役立った」と、あっけらかんと答えています。死線を越えたことの深刻さより「絵の技術が向上した」と答えられる脳天気さによって、95歳の天寿をまっとうできたのかと思います。

 向井潤吉「飛騨立秋」1962

 


小磯良平「娘子関を征く」1941

 小磯良平(1903-1988)は、戦後出版した画集に戦時の代表作「斉唱」「娘子関を征く」を収録せず、戦争画を描いたことに心痛めていると述べています。 

<つづく>
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