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ぽかぽか春庭「37セカンズ」

2021-05-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
 
20210520
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2021シネマ夏(1)37セカンズ
 
 「37セカンズ」: 37 Seconds)は、2020年2月7日に公開された日米合作映画。ようやく飯田橋ギンレイにかかったので、見てきました。
 監督のHIKARIの長編デビュー作で、第69回ベルリン国際映画祭パノラマ部門の観客賞及び国際アートシアター連盟賞受賞作 。ひとつの作品が2冠となるのは、はじめてのことだったそうです。
 
 「障碍者を主人公にしたファンタジー物語」として、とてもよい映画でした。ことに主演の佳山明は、けなげでいとおしい雰囲気がとてもよかったです。
 しかし、リアルな障碍者像、障碍者問題を扱うつもりだったとしたら、違和感が残る、という部分もあり、「障碍者を持つ人をオーディションで選んで障碍者の役を演じてもらったのは、リアルな障碍者像を出したかったから」と監督がインタビューで述べている「リアリティ」とはどんなことを意味していたのか不明。障碍のない大泉洋が障碍者を演じた「こんな夜更けにバナナかよ」のほうが、ドキュメンタリーをもとにしているという理由もありましょうが、ずっとリアリティを感じられる「障碍者もの」でした。
 では、どこがファンタジーだというのか、以下に理由を述べます。
 
 以下、ネタバレ含む紹介
キャスト
・貴田ユマ : 佳山明
・ユマの母貴田恭子 : 神野三鈴
・ヘルパー俊哉 : 大東駿介
・セクシャルワーカー舞 : 渡辺真起子
・漫画家&youtuberサヤカ : 萩原みのり
・漫画編集者池谷: 宇野祥平
・セクシャルワーカーヒデ: 奥野瑛太
・雑誌編集長藤本: 板谷由夏
・タイ在住現地教師ゆか:芋生悠 
・風俗店客引きの男: 渋川清彦 
・リハビリ療法士: 石橋静河
・千葉の海辺ペンション経営者古谷(実はユマの叔父): 尾美としのり
 
 あらすじ。
 ユマは、出生時に37秒間、呼吸がなく脳に酸素がいかなかったために脳性麻痺を負い、車いすで生活している。母は生活のために働きつつ、ひとりで介護を続けている。
 ユマは得意の絵を生かして、人気漫画家SAYAKAのアシスタントをしている。担当編集者は「障碍者をアシスタントにしていることを公表すれば好感度があがる」と勧めるが、SAYAKAは公表する気はない。なぜなら、ユマはアシスタントではなく、ゴーストライターだから。
 ユマが担当編集者に渡した「ユマのオリジナル作品」は、「SAYAKA先生の作風に似すぎていて、これじゃ使えない」と返されてしまう。似すぎているのも当然。SAYAKAの作品は全部ユマが書いているのだから。
 
 ユマは、一枚の絵ハガキを大事にしている。男の人が女の子をあやして高いたかいをしている絵。差出人に記憶はないけれど、たぶん顔を見たこともない父親が描いたのだと信じて大切に持ち続けている。ユマにとっては、絵ハガキの男の人が唯一父を感じさせるよすがなのだ。 
 物心つかないうちに母恭子は夫と離婚したことは知っているが、母は一度たりとも父の話をユマにしたことはなかった。
 恭子はユマに秘密にしていることがある。しかし「私だけがユマを愛しているのだ」という自負から秘密を打ち明けたことはなかった。
 
 ユマの母は、ユマの世話をほかの人にゆだねたことはない。母がいなければ、ユマは風呂さえひとりでは入れない。着替えもすべて母が手伝う。
 
 しかし、ユマは成人後、母から独立したい気持ちが強くなってきた。母の介護は「親の支配」でもあるからだ。母は、ユマの世話が生き甲斐であり、人生のすべて。ユマの独立など考えたこともない。
 
 エロ漫画雑誌編集長藤本に作品を見てもらったとき、「実際の恋愛経験もなしに想像だけで描いてもリアリティがない」と評され、ユマはある決心をする。
 ユマは風俗街に車椅子で入り、客引きから女性向けサービス業のヒデを紹介されてホテルへ。
 しかし、ヒデは最後まで仕事を完了することなく、「料金割引」で帰ってしまう。ユマはエレベータが故障したため1階出口に向かうことができず、エレベーター前にいた車椅子のクマさんと、クマを顧客としている舞と出会う。事情を話し、クマのヘルパー俊哉に下ろしてもらう。舞はセクシャルワーカーで、「クマさんは私の常連さん」と笑う。
 
 舞の助けも得て、ユマはこころを開放し、メイクをしてみたり母が決して着せてくれないかわいいワンピースを着たりする。
 母は「かわいいかっこうをして外出し、襲われたらどうする」という心配のため、地味な服装しか許さないのだ。ユマの母恭子は、自分が共依存者であることに気づいておらず、ユマの自立したいという気持ちを認めることができない。(共依存=他者を世話することに生きる意味を感じているため、世話している相手の自立を阻む例が多い。アル中患者を支える妻、障害者の親などが共依存になりやすい。子どもの自立後、空の巣症候群に陥る親もこの一種)
 
 ある日、ユマはリハビリ中にトイレに行くと言って、病院を抜け出し、ヘルパー俊哉の車で絵ハガキの住所に連れて行ってもらう。その住所のペンションにいたのは、父の弟だった。叔父はユマの父は5年前に病死しており、ユマには双子の姉妹がいたことを告げる。
 
 ユマの姉妹ユカは、タイで現地校の教師をしていることがわかり、ユマは俊哉のヘルプでタイに行き、ユカと会う。
 
 タイの列車でユカの学校へ

 
 
 ユマの母は姉妹の存在をユマに隠していたが、ユカは双子の姉妹の存在を父から聞いたことがあった。しかし、双子の片方が健常者であり、もう片方が出産時事故のために障害をもったことから、「会うのがこわい」と感じ、連絡できないでいたのだ。両親の離婚の原因を「母はユマだけを愛したかったのだ」と考えてきたせいもある。母は健常者のユカよりも、ユマを選んだのだ。
 
 ユマは、タイの宿で「もし生まれ順が逆だったら、私が健常者でユカが障碍者になったかもしれない。でも、私でよかった」と言う。ユマの自己肯定の表出で、映画中の白眉だ。ユマは「障碍をもつ私」であり、「障碍まるごと私」なのだとわかったのだから。
 
 帰国したユマは、もう一度編集長に会い、藤本の助言のおかげで今までとは異なる経験ができたことにお礼を言う。
 藤本はユマの作品を見て、「新しい作家さん」の誕生を確信する。
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 賞もとっているし、何と言っても、脳性麻痺女性100人をオーディションして選ばれた主演の佳山明(かやまめい)がすごくいい。表情も小さな声で自信なさげにしゃべるところも、「守ってあげたい」感満載。
 しかし、いくつかの点で、脚本に違和感を感じたところがあります。
 
 ひとつめ。
 母親が共依存であることはいい。しばしば、アル中夫を持つ妻や障碍児を持つ母親は「私がこの人を支えている」という思いが強くなり、共依存となることは、多くの例が示しています。
 
 しかし、障碍者の母として、ユマの母はあまりに孤立しすぎています。春庭娘の保育園クラスメートのお姉ちゃんがダウン症だったので、5年間その母親ともおつきあいがありました。障碍児が学校教育をうけるようになると、養護学校の母親のネットワーク助け合いの輪は、とても強固であり、恭子のように孤立してひとりで子の世話を続けるなんて、したくてもできない。こういう「助け合いの輪」は、ありがたくもあるけれど、とてもおせっかいで、障碍者の母親を孤立させたりしない。福祉にも連絡するし、だれかしらが援助してくれるのだ。
 
 ユマは学校教育を受けたことがあると見えるから、学校仲間がいるはず。ユマが学校時代の友達の輪の中に入っていないとしたら、よほど特殊な学校生活をおくったのだろうと思う。
 ユマの脳性マヒの程度は軽度です。手を使って絵も描けるし、知的障害もない。ユマは学校生活の中で、障害者の自立生活についての教育(年金手続き、ヘルパー要請など)を受けているはずなのだ。監督は、日本の障害児教育における自立支援教育についても無視している。
 
 ユマの母親は特に資産家でもないように見える。人形つくりの内職や、パートでの仕事を持っていることは映画にも描かれているが、ユマのために障害年金受けとってはいなかったのか。もしもらっているなら、成人しているユマに年金分を渡していないことは、ユマへの経済的虐待です。
 
 シングルマザーがひとりで障碍者をかかえていれば、地域の民生委員なり福祉関係者が、障碍者年金を受け取る手続きを母親に教えないってことはない。監督は、日本の障碍者が年金を1年間にいくらもらうことになっているか、知っていただろうか。障害の程度によって金額は違いますが。知っているけれどあえて、そのお金のことにふれずにストーリーを作り上げたのか。
 
 ユマが自分名義の年金を自分で管理していれば、千葉へ向かうお金を舞に借金したりしない。ユマがSAYAKAから渡されるわずかなアシスタント料金しか手にしていないのは、明らかで、この母親は共依存者というだけでなく、我が子の自立を阻む鬼母となっています。
 
 現実では、障碍者の親が一番気にするのは「私が先に死んだら、だれがこの障害ある子の世話をするのか」ということ。行政にでも、養護学校仲間にも、あらゆるネットワークで、我が子の行く末が安心できるものになるようにするのが親の仕事であって、恭子のように介護を一人独占する親は、現実には存在しえない。HIKARI監督は「こんなよふけにバナナかよ」を見たことあったのかなあ。障碍者の生き方を描くとして、「バナナ」のほうがずっと自然(元がドキュメンタリーだからだけど)
 
 一般的な障碍者の親は、自分がいなくなったときの我が子の行く末のために、過酷なほど自立訓練を行っています。服の着替え方、お風呂の入り方その他。恭子がユマにそれをしてやらず、すべての世話をひとりでかかえているのは、逆に、ユマの自立を阻む虐待にあたります。
 
 5年前にユマの父親が死んだとき、父親の弟古谷は、住所がわかっている兄の元妻に連絡をとろうとしたはずです。ユマの将来を考えれば、母親はもうひとりの娘のユカに連絡をとることが可能だったと思う。それをしなかったのは、ユマのふたごの姉妹のひとりが健常者であることを知らせたくなかったのと、ユカを元夫に押し付けて顧みることがなかったことに後ろめたさを感じていたからでしょう。
 
 ユカが「ふたごのひとりが健常者でひとりが障碍者となってしまった」ことを気にすることについては、わかります。
 私の大切な友人「青い鳥」さんも双子の姉妹で、ひとりは健常者でひとりは脳性麻痺者だから。青い鳥さんは3人姉妹。一番下の妹さんは、献身的にお姉さんを支えていましたが、ヘルパーさんの助けを借り、けっして無理はしていなかった。青い鳥さんが結婚出産子育てをするにも、ご両親と妹さんの手助けが必要だったことはわかりますが、家族で抱え込んではいなかった。
 私が青い鳥双子の妹さんに会ったのは、1度だけですが、やはり青い鳥さんに対してちょっと遠慮が感じられたのです。自分だけが健常者で、障碍を負ってしまった青い鳥さんに遠慮があるのかなと思いました。
 
 ふたつめの違和感。
 ユマが病院を抜け出すシーン。リハビリをしていたユマは、担当者にトイレにいきたいと言います。ユマがトイレに入って「ここまででいいから、ひとりで大丈夫」と言い、療法士はトイレの前から立ち去ります。見張りがいなくなり、ユマは逃げ出すことができました。
 こんなことが現実に病院で起きたなら、病院をあげての大騒動になり、警察もくる。病院の責任問題になるので、大捜査網が敷かれます。
 病院の患者に対する体制を無視して作ったシーンだと思います。
 
 ユマの母親が、交番勤務に「じきに帰ってくるんじゃないの」なんて呑気に言われているってのは、現実にはありえねー。
 ちなみに、いくつかの映画紹介サイトでは石橋静河の役を看護師と書いてあったけど、リハビリをする理学療法士と看護師とは別の仕事です。
 担当者がリハビリ中の患者から目を離したりして、患者が行方不明になったら、始末書どころじゃない。たぶん首です。もし、石橋静河が「施療中の患者から目をはなしてはならない」という医療従事者の基本的なことがらを知らないのだとしたら、そんな病院は潰れて当然。監督は、医療従事者のプロ意識を無視している。
 
 ユマが逃げ出すシーンを作りたかったのなら、SAYAKAの仕事場から家に帰らない、というのが、いちばん自然な方法。なんでわざわざユマは病院から逃げ出す必要があったのかわかりません。
 障碍者ファンタジー映画なので、いいっちゃいいけれど。
 
 みっつめ。
 ユマはパソコンを使いこなして、メールに作品を添付して送ることもできます。検索だってできるでしょう。「障碍者 SEX フーゾク」とでも入力すれば、男性向け、女性向け、男性に世話してほしい男性向けその他、情報はどんどん出てきます。ユマがまったく情報を知らずに、風俗街へ出かけていくことに対して「そんな情報知らずで風俗街などに出向くな」と感じます。
 ネットの中の描写は、現実にフーゾクの男にしてもらうことなんぞは吹き飛ぶくらいさまざまな描写に出あうであろうに、ユマはいきなり風俗街へ。客引きは、ヒデを紹介します。
 
 女性向けフーゾク店のヒデ。ベッドサービス中、ユマが放尿してしまい、ヒデが体に受けてしまう。すると「おれ、こういうのダメなんだよね。もう、萎えたからできない」と言い、2万のサービス料を1万8千に値引きしただけで帰ってしまう。なんだよぅ。ヒデはプロ失格だよ。プロとして仕事するなら、放尿プレイも脱糞プレイもありでしょうが。その覚悟も無しにちょいと気軽に小遣い稼ぎと考えて、おしっこひっかかっただけで萎えるなんて、もう仕事引退しな。こういうプロ意識の低いセクシャルワーカーを出してほしくなかった。ヒデが途中で仕事を投げ出したのは、ユマが障害者ゆえにあなどった、と思えます。
 
 監督は、障害者を軽視する多くの人の代表としてヒデを造形したのかもしれませんが、ユマが「体験できないままホテルを出る」ってことにしたかったのかとも思います。ユマを処女のままにしたかったのか。ユマの処女性を残すことによってピュアであることを保つというのなら、それは違うと思うけれど。
 
 舞を世話好きの心優しい人柄に描いたのはいいけれど、ヒデがこれじゃ、プロのセクシャルワーカーをバカにしていることになると思う。
 私は、きちんと仕事をし人を癒す技術を持つワーカーをひとつの職業人として認めるべきだと思っています。自由意思で仕事をしている人(たとえば舞もそうだろうけれど)としてセクシャルワーカーをやっているなら、その仕事を認めようよ。(組織から抜け出すことができず、組織が搾取する労働は認めない)
 
 ヒデを演じた奥野瑛太は、朝ドラ「エール」では、ヒロイン音の姉の夫。戦前は厳格な軍人、戦後はふりきったラーメン屋を演じていました。うん、奥野瑛太なら、1回2万で途中で帰ってもいいんだけれどね。現実にはこんなイケメンフーゾクはいるのかどうか、利用したことないので、なんとも言えぬ。
 
 ユマが舞に手伝ってもらって、「大人のおもちゃ店」で電動ペニスを買うシーンもしかり。ユマは電動を見てスケッチしていたけれど、ネットのなかにはもっとさまざまな形態のものが満載。
 おもちゃ店では舞が「これ、前のダンナのに似ている」と喜んでいたから、このシーンがあるのも、まあいいけれど。渡辺真起子 、いいですね。
 
  HIKARI監督は、インタビューの中に「最初に企画を考えたのは、障碍者のセックス問題からだった。映画は、ひとりの女性の成長を描いています」と述べています。主人公を障碍者に設定するなら、セックス問題をもう少しきちんと描いてほしかった。おしっこ引っかかったから、萎えてできないって、、、ファンタジーだから、いいけどね。
 
 37セカンズは、4チャンネルの「24時間テレビの障碍者主人公ドラマ」に比べれば「感動ハラスメント」になっていないと思うけれど、外国で賞をとったために、外国で「これが日本の障碍者の生活」と思われたらいやだな、と感じます。障碍者の生活の厳しさは、現実もっといろいろあるのだけれど。
 ユマは知的障害もないみたいだし、足は不自由だけれど、手は絵が描けるほどには動かせる。障碍の程度から言うと、脳性麻痺の人のなかでも重くないほうです。
 
 佳山明は、「守ってあげたい」感満載の母性本能をくすぐる容姿で、とてもかわいらしい。この映画にとって、彼女の主演が不可欠でした。
 セクシャルワーカー問題にしろ病院体制問題にしろ、わかってあえてストーリーを作り上げたならそれでもいいけれど、監督は病院やフーゾク業界をどれくらいリサーチしたのか、わからない。「ファンタジー障碍者もの」として、とてもよくできた映画で、少々の穴がある脚本は、目をつぶってもいいと思うけれど、監督が「障碍者のセックス問題から脚本を書いた」などと語ってしまうと、「どんだけ障碍者のセックスについて理解したのやら」と思う。
 
 多くの人に見てほしいけれど、多くの人が「感動してそれで終わり」になる24時間テレビの障碍者ドラマになるかもしれない心配をしてしまう老婆心。
 この老婆も「ふたりの子供を残しては死ねない親」だからです。
 
<つづく>
コメント (2)
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