20210520
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2021シネマ夏(2)スパイの妻
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2021シネマ夏(2)スパイの妻
『スパイの妻』は、黒沢清監督作品。2020年に劇場用映画として公開、ベネチア映画祭で監督賞(銀獅子賞)を受賞しました。
劇場版のほか、2020年6月6日14:00 - 15:54放映のNHK BS8Kで放送されたテレビドラマがあり、画面に違いがあるというのですが、私が見たのは、2021年に放映された映画版。

<出演>
- 福原聡子:蒼井優
- 福原優作:高橋一生
- 津森泰治:東出昌大
- 竹下文雄:坂東龍汰
- 駒子(福原家の女中):恒松祐里
- 金村(福原家の執事):みのすけ
- 草壁弘子:玄理
- 野崎医師:笹野高史
- 露店商:佐藤佐吉
<スタッフ>
脚本: 濱口 竜介、野原 位、黒沢 清
音楽 : 長岡 亮介
演出 : 黒沢 清
NHKによるあらすじ
1940年、太平洋戦争前夜の神戸。福原聡子(蒼井優)は、満州へ赴いていた夫・優作(高橋一生)の帰りを待ちわびていた。ところが帰国後、幼なじみの憲兵・津森泰治(東出昌大)から呼び出され、夫が満州から連れ帰った女の死を告げられる。嫉妬心に駆られた聡子は、夫の行動を疑うなかで、彼が持ち帰った重大な秘密を目にしてしまう。かの地で一体、何があったのか。真実を知ってしまった聡子は驚きの行動に出る。
春庭は、1994年の中国赴任時、ハルビンへ出かけました。ハルビン郊外の学校の中に「731部隊」の遺留品が展示してあることを知っていたからです。教室の中、やや雑に展示されていた遺留品や写真の数々。目を覆いたい、という証拠の品々ですが、目を覆うわけにはいかなかった。ただひたすら恐ろしかった。
(現在は学校の建物とは別に博物館が建てられ、遺留品や記録などが展示されているらしい)
1994年中国赴任当時、私は遠藤周作の『海と毒薬』は読んでいましたが、森村誠一の『悪魔の飽食』を読んだことはなく、731部隊については、断片的な知識をもっていただけでした。帰国後、常石敬一『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』( 講談社現代新書 1995年)を読んで、自分がハルビンの学校で見たことの全貌をようやく理解したのです。
『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』の出版社解説
日本は大陸で何をしたのか? 軍医中将石井四郎と医学者達が研究の名で行った生体実験と細菌戦の、凄惨で拙劣な実態。残された資料を駆使して迫る、もう1つの戦争犯罪。戦争は終わらない。
「スパイの妻」の背景にあるのは、この731部隊の戦争犯罪です。
以下、ネタバレを含む紹介です。
冒頭、外国人貿易商が憲兵に拘束されるところから始まります。1940年、大陸で続く戦争は、まだ人々には遠いできごとであり、戦争需要は「景気拡大」と受け取られていました。
神戸に住む貿易商の妻聡子は、裕福な暮らしを続けており、戦争も遠い出来事にしか感じられませんでした。夫の貿易の仕事は順調で、ふたりは「国策」に反して洋服を着、洋楽を聴く西洋文化の生活を改めようとはしません。優作の趣味の「映画撮影」に、素人女優として参加する聡子もしそう。
聡子のただひとつの心配は、夫優作が満州へ出かけていくこと。大陸では戦争が泥沼化してきたことを、国民がようやく知るところとなっていました。
優作の留守中、憲兵となっている幼馴染みの津守が福原邸にやってきたとき、聡子は、夫の秘蔵洋酒をふるまいます。世間の目があるので、洋服姿をやめるよう諭す津守への抵抗でもあり、不在の夫への不満の表明でもあります。
優作が満州から帰国した後、さまざまな変化がありました。ひとつは、夫の甥が会社をやめ、旅館にこもって「小説を書く」生活になったこと。もうひとつは、夫の周囲に「謎の女」がいるらしいこと。
優作は満洲で、ある国家機密を知ってしまったのです。優作は自分自身を「コスモポリタン」だと規定しています。「国家の正義」よりも「人類の正義」に殉じるべきだと考えて、正義を貫く計画を立てていました。
一方、津守は「国家の正義」のために、福原夫妻を追い詰めていきます。甥の竹下文雄は憲兵に拘留され、拷問を受けます。優作も憲兵に拘束されます。
聡子が知ってしまった「夫の秘密」とは、夫が現地で手に入れた映像フィルムでした。フィルムを映写した聡子は、夫に「私も夫と運命を共にしたい」と申し出ます。夫がしようとしていることは、「国家の正義」にてらせば、国賊者でありスパイとみなされる行為です。しかし、聡子は「あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」と叫び、愛する夫と運命を共にする決意を固めます。
夫妻はアメリカへ亡命する決意をするのですが、先に密航船に隠れていた聡子は、憲兵に拘束されてしまいます。
聡子が保持していた「証拠のフィルム」を軍人達の前で上映すると、そこに写っていたのは、優作が聡子を女優として作成した趣味の映画作品でした。優作は、ひとりで亡命を実行し、聡子を日本に残し安全に過ごさせる方を選んだのです。
夫妻の戦後の運命について、クレジットで示されるのみ。もし、優作がフィルムを保持していたのなら、アメリカ政府は亡命を認め、優作を保護したでしょう。
なぜなら、731部隊に関わった幹部のほとんどは、戦犯訴追をまぬがれて、戦後日本社会で堂々と生き延びたからです。
アメリカ政府が「ぜったいに自分たちでは実行できない人体実験の記録」をのどから手がでるようにほしがり、この実験データをアメリカに渡すことを条件に、731部隊関係者を戦犯としないことを決めたからです。
人体実験を繰り返した731幹部たちの一部は、戦後「ミドリ十字」という血液製剤会社を設立。エイズ患者から摂取した血液を含む血液製剤を製造販売し、輸血が欠かせない血友病患者などに処方しました。患者はエイズに罹患し、長く苦しむ結果となりました。
ミドリ十字は、1950(昭和25)年に創業された日本最初の民間血液銀行『株式会社日本ブラッド・バンク』を前身とします。
取締役会長には岡野清豪、代表取締役専務取締役に同社創業者の内藤良一、常務取締役に小山栄一が就任。
このうち内藤は医師(元軍医・陸軍軍医中佐)であり、旧日本軍731部隊を取り仕切っていた石井四郎軍医中将の片腕の一人にあたる。また、顧問に就任した北野政次は一時期731部隊長を務めており、取締役の二木秀雄は元731部隊二木班班長であるとともに右翼系政界誌「政界ジープ」の発行者。
このように、ミドリ十字は、731部隊の幹部が集まった会社であり、創業の731部隊関係者が死去したり引退したりしたあとは、厚生省幹部の天下り先となり、厚生省と関わり深い会社として存続しました。
薬害エイズを引き起こしたのち、旧:田辺製薬株式会社(TANABE SEIYAKU CO., LTD.)を存続会社とし、「田辺三菱製薬株式会社」となって存続。
結局、福原優作が告発しようとして命を賭してアメリカ亡命をはかったのは、アメリカに731部隊の人体実験記録を渡しただけで終わったのだと思います。人体実験に直接関わった医師たちは、ミドリ十字幹部となり、戦後をのうのうと生き続けました。

満州の地に残されたのは、人体実験で恐ろしい処置を施された中国人、関東軍に置き去りにされた開拓農民、非国民として逮捕された日本人の、死屍累々。
聡子の運命は曖昧なまま映画は終了しました。聡子が「スパイの妻」として生きる決意をして、戦後夫とともに暮らせたのかどうか、映画を見た人がそれぞれに推測するしかありません。
一方、はっきりしているのは、私たちが現在幸福に暮らせているとしたら、それはある「不正義」の上に、戦後日本社会が成り立っていた、ということを自覚すべきだということでしょう。
731部隊の幹部が設立したミドリ十字が薬害エイズを引き起こしたこと、感染症ワクチン開発費を出さず、研究を凍結してしまった内閣、みなひとつづきの「日本社会のありよう」です。
<つづく>