20240916
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>2024旧語新語(1)山本翁2000年の愚痴
8月は毎週水曜日に歯科内科の検診、木曜日に近所のスーパーに買い物に出る以外は、ほとんど外出せず、家にこもってすごしました。
ごろごろと寝転んで、ひねもす本を読んだり、のらりくらりとして過ごす。推理小説など読み始めると犯人判明まで一気に読み続けてしまい、一冊が2時間程度で終わってしまうから、時間かかりそうなものをツンドクの中から選ぶ。2017年新刊2020年文庫化の「鳥類学者だからって鳥が好きだと思うなよ」は推理小説じゃなけど、面白かったから2時間で読み終わってしまった。
もっと時間かかりそうなもの、、、、ちんたらと少しずつ読むもの、、、、山本夏彦(1915-2002 )「毒言妄語」文庫版(1977)を読み始めました。
山本翁が世相を斬る連載。週刊朝日や毎日新聞に掲載した社会批評なのだが、50年前の老爺の繰り言、今や「昔はそうだったよねぇ」と、昔時をなつかしむ愚痴となっている。たとえば、ワンマンバスの料金の払い方。どこから乗ったか証明する整理券を握りしめ、おつりが出るのか、両替機なのかわからない料金箱に小銭投入してまごまごして、ワンマンの運転手ににらまれる。老人はバスに乗れない、という愚痴。50年すぎた今では都内のバスはどこまで乗っても210円。しかも皆ピッとスマホやカードをかざして清算するから運転手ににらまれずとも済む。翁ゆきて、すでに二十年を過ぐ。デジタル全盛の今の世の変わりように、どんな愚痴をこぼすのか、知りたかった気がする。
ワカゾーの言葉遣いに愚痴をこぼし、明治大正の語彙について、こんなことばさえ知らない、なさけない、と愚痴るのが、昭和っぽいというか、昭和の世でさえ老人の愚痴であったものが、令和の今だから、二周回って面白い話もあるかと、山本夏彦の「最後の波の音」を寝転がって読む。
山本翁の著作を読むときの例で、1949年昭和後半戦後生まれの、国語教師日本語教師をなりわいとして身過ぎ世過ぎの50年。少しは語彙に注意を払ってきたと自負する頭にも「こんなに知らない語彙がある」と活を入れるために、山本翁の本はいつも見知らぬ語彙にでくわす。以下、新しく知った江戸語彙明治語彙。頁数は「最後の波の音」文庫版(2006)の数字。
1 p144 東洋の一豎子(いちじゅし=小僧)
豎子/孺子(じゅし) とは。1 子供。童子。 2 年若い者や未熟な者をさげすんでいう語。若造。青二才。
用例として芥川の芭蕉雑記から 「後代の豎子の悪作劇に定めし苦い顔をしたことであろう」があげてある。明治大正の芥川には使えた豎子を、昭和の子はまったく知らなかった。不明にして無知。山本翁は「恥ずべし」とお怒りだろうが、75歳のこんにちまで豎子という語を知らずに生活して不便はなかった。
2 p160(二葉亭は)国事に尽悴しようと外国語学校に入学する。
「尽くす」も「悴する」も知っている字だから「尽悴する」の意味は推察できる。尽悴とは。自分の労苦を顧みることなく、全力を尽くすこと。意味はわかっても、使ったことなし。理解語彙ではあるが、使用語彙ではなかった。
3p175 敗戦後すぐ社長室に「五か条の御誓文」を大書して掲げ、拳拳服膺していた。
ケンケンフクヨウも、理解語彙にして使用語彙ではない。
ことばは生きているゆえ、年年歳歳移り変わり、新しきが生まれ旧きが消えていく。豎子を知らずとも生活できるし、「尽悴する」ことなくも一日は終わる。しかるに日々新しいことばは世に浸透し、高貴幸齢者はよぼよぼとこけつまろびついちいち検索して意味判断している。
2023年から急激にビジネス界に浸透した語のひとつが「レジリエンス」
「回復力」「復元力」「弾力」などをさすが、最近の用法では、困難や逆境に直面したときにしなやかに立ち直る力や精神的回復力を指す。それをビジネスシーンで使うとなると、「企業や組織が不測の事態や変化に対して、迅速かつ適切に対応できる能力」を指すのだと。具体的には、自然災害やテロ攻撃、経済危機など、様々なリスクに対して、事前に計画を立て、迅速な対応を行うことが求められ、企業の不祥事などで社長以下ずらりと並んで記者たちの前で頭をさげるような事態になっても、レジリエンスをうまく回せれば、マイナス面を最小限におさえることができる。
私の場合、足の小指骨折は、レジリエンス定法どおり三か月かかり、回復力はいまいちでしたが、もう歩くに不自由はない。
今は庭の隅で枯れ果てているが、来年の梅雨時にはまた復活して咲き誇ること思うアジサイ。自然はいつでもレジリエンス!

<つづく>