KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

八月十五日

2021年08月15日 | 俳句
天気 雨

窓から見下ろす線路沿いの道に、ネコジャラシ(えのこ草)がびっしりと生えている。写真はそのえのこ草ではないけれど・・あそこはJRの領分なのか市道なのか、といつも考えている。

西日本の水害の凄まじさをテレビで眺め、何だかそれを慰めにしている自分が情けない。コロナも災害並みなのだから、仕方ない。こちらは明日にかけて大雨になるらしい。このあたりは関係ない、とはいえ気がかりになる。

体調は昨日とまったく同じ。昼近くなるとだんだん息苦しくなって、それでも看護師が測ってくれる酸素濃度(パルスオキシメーター)は97はあって、まだ元気に生きている証拠。熱は今日は0.3℃くらい高いけれど、コロナ感染はしていない(昨日のPCR検査も陰性だった)。ということは、この涼し過ぎる気温と停滞前線のせい・・にして、
看護師さんも「一緒に気力で頑張りましょう」
生きているのだから頑張らなくちゃ。

終戦の前日に空襲に遭った、という人のことを昨日読んだ。群馬県伊勢崎では14日に大空襲があったという。でも、15日に、私はとっても怖い思いをした。
八月十五日のことは、毎年何かしら書いていたが、今日は「怖い思い」を書いた去年の再掲にする。書きたいことは様々あっても、あの日を生き延びたから今までの人生がある、と思っている。
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2020年8月15日のブログから。
去年、終戦日の自分のことを書いたので、それは省略。
実はその日、私はとても怖い思いをした。母・姉二人と山を越えた隣村の父の実家から帰る途中の畑の中で、低空飛行の米軍機に狙われた。狙われた、としか言いようのない、我々4人しか居ない畑のど真ん中。母は、私を抱いてとうもろこし畑の中に伏せた。とうもろこしが、爆風に大揺れするくらいの低空を何機かの飛行機が過ぎていった。8歳上の姉と3歳上の姉も多分、同じように地に伏せて頭の上の轟音に耐えていたと思う。いつもは防空壕で耐えていた音が、真上にあるのだから怖かった。(房総半島に住んでいたので、首都周辺襲撃の飛行機の通り道だった)
それから、私の脳裏には終戦のあの天皇のラジオ放送が記憶になってくる。
以上の二つのことが同じ日だった、とはっきりしたのは、一昨年くらいだったろうか。恐怖の体験の真相を聞こう、聞こう、と思っているうちに母も姉も亡くなった。残るは3歳上の姉だけ(今も私より元気)なので、確かめておかなくちゃ、と聞いておいて良かった。姉はよく覚えていた。
多分、終戦を解っていても、米軍兵は面白がって母子をからかっていたのだろう、と私は思う。
その後何十年も、私は飛行機の爆音がトラウマになり、今の家に移る前、数年だけ住んでいた家に近い横田基地の音にどうしても慣れなかった。

 長く生きているのも楽ではない。コロナと戦争とどちらが怖いか、と言われれば、戦争の方が怖い。
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そういえば・・8月15日に雨の降ったという記憶があまりない。
この日は義弟の忌日。海で事故に遭った日も、その後の命日も、いつも残暑の思い出しかない。

稀有ならん終日雨の終戦忌   KUMI
コメント (4)
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