天気 晴 33℃
写真は、真冬の秩父で撮った寒満月。今日、結社誌の最終号が届き、すべてが終って、先生のことを色々考えていたら思い出した写真。
主宰の亡くなったのは3月13日。で、その半月ほど前の2月20日には日本記者クラブで金子兜太氏のことをスピーチしている。最終号のその内容を読んでいたら、思い出した。現代俳句の金子氏とは大変仲が良かった。その縁もあって金子氏の故郷・秩父の三十四観音巡礼吟行は足掛け3年、東日本大震災を挟み、無事に何回かに分けて満行することが出来た。私にとっては、忘れられない俳句修行のひとつになっている。
下の写真は、その日に拝観したお寺で作句中の主宰。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b3/2705a153bbb360b69d5f5917d81f5393.jpg)
カメラは、今で言えばスマホくらいの大きさのデジカメをいつも持参していた。が、何しろ句を作らねばならないので、カメラは邪魔。それでもこの日は、写真を撮る余裕があったらしい。
主宰は、足が悪いのでいつも杖をついておられた。外階段でも草の上でも、どこにでも坐る。
私も、当時は腰痛が出ていて、ちょっと坐ると少しは楽になるので、吟行には坐るための「プチプチ」の緩衝材を持っていった。主宰が汚れたところへ坐ろうとしたときに「座布団を敷かれますか」とそのプチプチを出したら「あなた、用意がいいわね」と笑われて坐した。
さて、以下はその時のブログからの抜粋。
この一泊二日の寒の修行の句会、泊まった日が満月だった。
秩父盆地は空気が澄み切ってい
るので、月の光が違う。無論我が家からも見えるものの、やはり濁った空の色が月を曇らせている、と改めて思った。ともかくピカピカの月だった。
そして翌朝5時半頃に起きたら、暁の満月がホテルの部屋からくっきりと見えた。空の色が刻々明るくなっていく中を月がゆっくりと山の端へ沈んでいく。丘の上にあるホテルならでは、の風景だ。
それを、心ゆくまで眺めることが出来た。夜の月はあちこちで見たものの、暁の満月をこれほどまでに堪能したのは初めての経験だ。 カメラは無論コンパクトしか持参しなかったので、ベランダの手摺りに固定してやっと撮れた写真。
るので、月の光が違う。無論我が家からも見えるものの、やはり濁った空の色が月を曇らせている、と改めて思った。ともかくピカピカの月だった。
そして翌朝5時半頃に起きたら、暁の満月がホテルの部屋からくっきりと見えた。空の色が刻々明るくなっていく中を月がゆっくりと山の端へ沈んでいく。丘の上にあるホテルならでは、の風景だ。
それを、心ゆくまで眺めることが出来た。夜の月はあちこちで見たものの、暁の満月をこれほどまでに堪能したのは初めての経験だ。 カメラは無論コンパクトしか持参しなかったので、ベランダの手摺りに固定してやっと撮れた写真。
で、後日談。主宰が金子兜太さんに「秩父の寒満月が素晴らしかった」ということを電話したら、ふるさとの寒満月は両神山の方角へ沈むはず・・と言われたらしい。誰か写真を撮った人は居ないのかしら?と編集部で話したら私の名が出たらしい。
主宰から直接、私に「写真があったら送って欲しい」と電話が来てびっくりした。主宰の電話なぞ、生涯4.5回あったかどうか?それも、写真を兜太さんに見せたいから、と言うのだからびっくり。
「小さなカメラでしたので、良く撮れていませんけれど」
「月と両神山が写っていればいいのよ」と言われてメール添付で編集部へ送った。主宰のご主人は、名を知られたカメラマンだから、冷や汗もの。
そんなことを思い出し、最後の結社誌に載ったあれこれを読む。会員の追悼句、一人3句ずつの載った頁は拾い読みして・・悲しみ新た、と言うべきなのだろうか。涙が溢れて読めない記事もあって疲れたのであとはゆっくり後日に読もう。
私はもう少し生きられるらしいから、いつもの吟行句会のお仲間(というか年下の句の先輩)の新結社に参加する。彼女は私にとって主宰の次の句の師匠だったので、いつかこのういう日が来たら彼女について行こう、と決めていた。主宰は、一代限りの結社にするつもりなので、元気なうちに結社を閉じるかも、という噂の流れた時もあったのだ。
でも、私より3歳上でとっても元気な主宰が、突然・・本当に突然だった・・逝ってしまうなぞ考えてもいなかった。
(最終号の句 2023年4月作)
春愁はあなたに合はぬ師のことば KUMI
句会で「春愁」という季語の句を出してみたら、みごとに刎ねられて評では「およそ貴女の使う季語ではないわよ」と。悔しいので、数年後
「春愁と書き春愁を引き寄する」と作って東京例会に出したら、認められた。
懐かしい思い出の季語。