ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

茨城県行方市、小幡「小幡城跡」です!!

2019-02-09 06:43:33 | 城跡・館跡・陣屋跡
小幡地区は、行方市役所の北約9kmのところ

県道2号線・県道50号線・県道184号線と来て

観音寺の案内板を入り、参道入口に車を止めました

観音寺の敷地と北側の小学校跡はかつての小幡城の跡だそうです


観音寺緑地環境保全地域説明版です、白く囲まれた部分が本丸と三の丸の部分だそうです、書学校の敷地が二ノ丸だそうです




観音堂東側の土塁跡です


観音堂北側の土塁跡です


西側の土塁跡です


三ノ丸(観音堂周辺)と本堂側の境に空堀が有ったようです、今は段差はわずかです

西側の空堀跡は道路になっています

東側の空堀跡です



本堂西側の庫裏まえまで広い平場が本丸でうす


鐘楼の載る部分は土塁の跡のようです


本堂脇に城跡碑が有ります
  小幡城跡
 平安初期、小幡と行戸を余戸の里と言う。
 小幡旧記に、桓武天皇の孫、平高棟王(804~867)、平氏の祖
 大同元年(806)5月小幡に宮郭を移す。同3歳子戌2月18日筑
紫施音寺より、如意輪尊、満開上人郷に移す。
 旧記、根元家文書 記最後焼失 疑問残
 伝記、堂山、平の屋敷跡と言う。今年附近より和銅開珎か、古銭堀出
す。
 元正2年(1260)行方十郎房静寛が、行方郡小幡郷大和田村を買
取(現郵便局から元水門の間附近を言う)
 寺伝であは、その頃、忍性上人によって観音寺を中興したと伝えられ
ている。
 上人の足跡、根元家へ一泊、漢方薬、ねずみの薬を上人から伝授、家
伝として長男に直伝、平成2年晴一没にて絶えた。
 鎌倉中期、常陸大掾平氏系の幹が初見、幹知の名ある、玉造城主3代
、景政の子、辰幹は小幡氏分流か、該当地、我が小幡、最も有力、当時
の城は館と言って正しくは豪族屋敷と言う。
 文保元年(1317)時綱(真壁郡)、永享元年(1429)には、
鉾田町の烟田氏の守護領に、なっている。
 寛正5年(1464)玉造正重、、小幡城完成し正忠六郎に渡される

 天正6年(1578)正幹は佐竹軍に敗れる。
 天正19年(1591)佐竹軍、武田、行方の双方から攻撃、一騎打
戦にて、士、阿間美六郎忠政敗れ落城。
 城跡、本丸今の観音寺本堂のある一帯、土塁を残している 二の丸空
堀を埋め小学校敷地、三ノ丸観音堂の一帯
 天正13年 大掾清幹、高岡の砦を攻める。領主、飯田又次郎


茨城百景、巨木三本松
 高さ42m、幹周り約12m、樹齢約800年位、小幡城の庭木、関
東では、類なく、茨城巨木写真展一位、昭和39年枯れ伐採。数個の皮
を保存、遠くは鹿島より見えたと言う。




本堂東側の土塁跡です

本堂北側の土塁は二の丸との境になっています


二ノ丸との境の空堀跡です


一段下がって北側の二の丸跡は小学校解体の工事中でした

では、次へ行きましょう
コメント
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