小幡地区は、行方市役所の北約9kmのところ
県道2号線・県道50号線・県道184号線と来て
観音寺の案内板を入り、参道入口に車を止めました
観音寺の敷地と北側の小学校跡はかつての小幡城の跡だそうです
観音寺緑地環境保全地域説明版です、白く囲まれた部分が本丸と三の丸の部分だそうです、書学校の敷地が二ノ丸だそうです
観音堂東側の土塁跡です
観音堂北側の土塁跡です
西側の土塁跡です
三ノ丸(観音堂周辺)と本堂側の境に空堀が有ったようです、今は段差はわずかです
西側の空堀跡は道路になっています
東側の空堀跡です
本堂西側の庫裏まえまで広い平場が本丸でうす
鐘楼の載る部分は土塁の跡のようです
本堂脇に城跡碑が有ります
小幡城跡
平安初期、小幡と行戸を余戸の里と言う。
小幡旧記に、桓武天皇の孫、平高棟王(804~867)、平氏の祖
大同元年(806)5月小幡に宮郭を移す。同3歳子戌2月18日筑
紫施音寺より、如意輪尊、満開上人郷に移す。
旧記、根元家文書 記最後焼失 疑問残
伝記、堂山、平の屋敷跡と言う。今年附近より和銅開珎か、古銭堀出
す。
元正2年(1260)行方十郎房静寛が、行方郡小幡郷大和田村を買
取(現郵便局から元水門の間附近を言う)
寺伝であは、その頃、忍性上人によって観音寺を中興したと伝えられ
ている。
上人の足跡、根元家へ一泊、漢方薬、ねずみの薬を上人から伝授、家
伝として長男に直伝、平成2年晴一没にて絶えた。
鎌倉中期、常陸大掾平氏系の幹が初見、幹知の名ある、玉造城主3代
、景政の子、辰幹は小幡氏分流か、該当地、我が小幡、最も有力、当時
の城は館と言って正しくは豪族屋敷と言う。
文保元年(1317)時綱(真壁郡)、永享元年(1429)には、
鉾田町の烟田氏の守護領に、なっている。
寛正5年(1464)玉造正重、、小幡城完成し正忠六郎に渡される
。
天正6年(1578)正幹は佐竹軍に敗れる。
天正19年(1591)佐竹軍、武田、行方の双方から攻撃、一騎打
戦にて、士、阿間美六郎忠政敗れ落城。
城跡、本丸今の観音寺本堂のある一帯、土塁を残している 二の丸空
堀を埋め小学校敷地、三ノ丸観音堂の一帯
天正13年 大掾清幹、高岡の砦を攻める。領主、飯田又次郎
茨城百景、巨木三本松
高さ42m、幹周り約12m、樹齢約800年位、小幡城の庭木、関
東では、類なく、茨城巨木写真展一位、昭和39年枯れ伐採。数個の皮
を保存、遠くは鹿島より見えたと言う。
本堂東側の土塁跡です
本堂北側の土塁は二の丸との境になっています
二ノ丸との境の空堀跡です
一段下がって北側の二の丸跡は小学校解体の工事中でした
では、次へ行きましょう
県道2号線・県道50号線・県道184号線と来て
観音寺の案内板を入り、参道入口に車を止めました
観音寺の敷地と北側の小学校跡はかつての小幡城の跡だそうです
観音寺緑地環境保全地域説明版です、白く囲まれた部分が本丸と三の丸の部分だそうです、書学校の敷地が二ノ丸だそうです
観音堂東側の土塁跡です
観音堂北側の土塁跡です
西側の土塁跡です
三ノ丸(観音堂周辺)と本堂側の境に空堀が有ったようです、今は段差はわずかです
西側の空堀跡は道路になっています
東側の空堀跡です
本堂西側の庫裏まえまで広い平場が本丸でうす
鐘楼の載る部分は土塁の跡のようです
本堂脇に城跡碑が有ります
小幡城跡
平安初期、小幡と行戸を余戸の里と言う。
小幡旧記に、桓武天皇の孫、平高棟王(804~867)、平氏の祖
大同元年(806)5月小幡に宮郭を移す。同3歳子戌2月18日筑
紫施音寺より、如意輪尊、満開上人郷に移す。
旧記、根元家文書 記最後焼失 疑問残
伝記、堂山、平の屋敷跡と言う。今年附近より和銅開珎か、古銭堀出
す。
元正2年(1260)行方十郎房静寛が、行方郡小幡郷大和田村を買
取(現郵便局から元水門の間附近を言う)
寺伝であは、その頃、忍性上人によって観音寺を中興したと伝えられ
ている。
上人の足跡、根元家へ一泊、漢方薬、ねずみの薬を上人から伝授、家
伝として長男に直伝、平成2年晴一没にて絶えた。
鎌倉中期、常陸大掾平氏系の幹が初見、幹知の名ある、玉造城主3代
、景政の子、辰幹は小幡氏分流か、該当地、我が小幡、最も有力、当時
の城は館と言って正しくは豪族屋敷と言う。
文保元年(1317)時綱(真壁郡)、永享元年(1429)には、
鉾田町の烟田氏の守護領に、なっている。
寛正5年(1464)玉造正重、、小幡城完成し正忠六郎に渡される
。
天正6年(1578)正幹は佐竹軍に敗れる。
天正19年(1591)佐竹軍、武田、行方の双方から攻撃、一騎打
戦にて、士、阿間美六郎忠政敗れ落城。
城跡、本丸今の観音寺本堂のある一帯、土塁を残している 二の丸空
堀を埋め小学校敷地、三ノ丸観音堂の一帯
天正13年 大掾清幹、高岡の砦を攻める。領主、飯田又次郎
茨城百景、巨木三本松
高さ42m、幹周り約12m、樹齢約800年位、小幡城の庭木、関
東では、類なく、茨城巨木写真展一位、昭和39年枯れ伐採。数個の皮
を保存、遠くは鹿島より見えたと言う。
本堂東側の土塁跡です
本堂北側の土塁は二の丸との境になっています
二ノ丸との境の空堀跡です
一段下がって北側の二の丸跡は小学校解体の工事中でした
では、次へ行きましょう