小高地区は、行方市役所の北北西約5kmのところ
国道355号線の南坂下信号から岡を上るように県道184号線を北へ
小高のカヤを見た後、北へ進むと県道5導線に出る手前のカーブに
小高城跡の説明版が建っています
説明版前の道路脇に車を止めさせて頂きました
説明版のある城跡入口です
説明版です
小高城跡
平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が郡司として
行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子
景幹(一説宗幹)は源平の戦において源氏に与し、屋島の戦
いで没した。
元暦元年(1184)、その所領は景幹の四子に分与され
、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子
幹政は玉造に進出した。彼等は、それぞれの地名を名字とす
る地頭として、「行方四頭」と呼ばれた。鎌倉時代初期、行
方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を
名乗った。その後裔は開発や社領侵略などにより、次第にそ
の勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根
、繁昌、吉川まで支配したこともある。
戦国時代末期、天正19年(1591)2月、幾多の戦乱
を生き延び約400年にわたりこの地を支配し、十数代を数
えた小高氏も、佐竹氏の「南方33館の仕置」により鹿島・
行方の所城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。
小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。
慶長7年(1602)、大山義則が城将のとき、佐竹氏の秋
田移封により廃城となった。
行方市教育委員会
城跡に行って見ましょう
北側へ進みましょう
大きな平場が有ります
一段高く成った平場でうす
これ以上は無理なようですので・・・
次へ行くことにしました
国道355号線の南坂下信号から岡を上るように県道184号線を北へ
小高のカヤを見た後、北へ進むと県道5導線に出る手前のカーブに
小高城跡の説明版が建っています
説明版前の道路脇に車を止めさせて頂きました
説明版のある城跡入口です
説明版です
小高城跡
平安時代末期、常陸大掾氏の一族、吉田忠幹が郡司として
行方の地に入り居城を築き、行方平四郎を名乗った。その子
景幹(一説宗幹)は源平の戦において源氏に与し、屋島の戦
いで没した。
元暦元年(1184)、その所領は景幹の四子に分与され
、長子為幹は行方、二子高幹は島崎、三子家幹は麻生、四子
幹政は玉造に進出した。彼等は、それぞれの地名を名字とす
る地頭として、「行方四頭」と呼ばれた。鎌倉時代初期、行
方城主であった為幹はここ小高の地に居城を移し、小高氏を
名乗った。その後裔は開発や社領侵略などにより、次第にそ
の勢力を拡大し、小高、南、橋門、井貝から、南高岡、中根
、繁昌、吉川まで支配したこともある。
戦国時代末期、天正19年(1591)2月、幾多の戦乱
を生き延び約400年にわたりこの地を支配し、十数代を数
えた小高氏も、佐竹氏の「南方33館の仕置」により鹿島・
行方の所城館主とともに滅ぼされ、その終焉を迎えた。
小高氏滅亡後、佐竹氏の一門が小高城将として配された。
慶長7年(1602)、大山義則が城将のとき、佐竹氏の秋
田移封により廃城となった。
行方市教育委員会
城跡に行って見ましょう
北側へ進みましょう
大きな平場が有ります
一段高く成った平場でうす
これ以上は無理なようですので・・・
次へ行くことにしました