安久津地区は、高畠町役場の東約2kmのところ
国道113号線を東へ進むと、右側に道の駅たかはたが在ります
すぐ先の左側(北側)に安久津八幡神社が鎮座します
参道は蛭沢側を渡った南側から始まっているようです
大きな赤い一ノ鳥居は南に500mも先に有ります
駐車場は参道西側に有りますが、道の駅たかはたを利用しました
大きな一ノ鳥居です、川の南側に建ちます
安久津八幡神社です
参道を進みます
ニノ鳥居です
鳥居の脇に置かれている「じじばば石」は、かつての石鳥居の柱のようです
山形県指定重要文化財は阿久津八幡宮、本殿、舞楽殿、三重塔です
境内の案内板です
参道右手の三島池です
池の北側に鳥居が見えます
岩駒稲荷です
厳島神社の祠は斜めになっています
参道西側の三島池の中島に三重塔です
説明版です
安久津八幡神社と三重塔
安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に
慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前
九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡
八幡をこの地に勧進したとされていますが、定かではあ
りません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿
弥陀信仰が八幡信仰に変わって行ったとも考えられます
。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代に
は「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広
大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、宗徒頭千殊院
をはじめ十二坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫
として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3
年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海
・湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して
入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語
っております。
三重塔は、本来寺院伽藍の一つですが、明治の神仏分
離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災な
どにより寺院が失われたため、三重塔のみが残りました
。方三間、銅板葺(当初杮葺、後瓦葺)で、三島池の中
島に建つ、置賜地方唯一の層塔です。三重塔は最初、寛
永二年(1625)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木
平右衛門を施主として建てられましたが、寛政二年(1
790)に烈風により倒れたため、寛政5年(1793
)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に
着手し、同9年(1797)に完成したものです。当時
の祝宴の盛大さは、小郡山武田家文書などからうかがい
知ることができます。
山形県指定有形文化財「八幡神社三重塔」
昭和30年8月1日 指定
高畠町教育委員会
手水舎です
参道の中央に舞楽殿が建って居ます、参道からは横を見ている形になります
東から、こちら側が正面です
説明版です
舞楽殿と安久津延年
石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向い
東向きに建つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間
の宝形造、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあ
り、屋頂には石造の路盤と宝珠が置かれます。舞楽
殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋
の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室
町末期のものと考えられています。
本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会
、法要などに舞われたといわれています。安久津で
は9月15日の秋の例大祭で、神社に奉納されます
。それ故地元では長い間「神楽舞」として継承され
、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。舞は、
「振鉾式(燕舞式)」「拝舞」「三躰舞」「太平楽
」「眺望楽」「蛇取舞」「姥舞」の七曲が伝えられ
、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲
を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚
児舞」とも呼ばれます。舞は、舞師である大地権大
夫家に、一子相伝の世襲制のもと、44代にわたり
代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡
熊野社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指
導していました。安久津延年は、比較的古式をとど
めている舞として、昭和63年に町指定無形民俗文
化財として指定され、平成5年には国の「記録作成
等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択され
ています。
山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」
昭和30年8月1日 指定
高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」
昭和63年3月18日 指定
高畠町教育委員会
正面には子育て地蔵尊が向かい合っています
地蔵尊の北側の石碑です
説明書きが在ります
山中神明宰
当地屋代郷一帯は、宝暦・明和年間水害旱害、冷害
で大不作でした。それに天明3年の大凶作で餓死者が
出る程の不況でした。この民苦と窮状を察して、当地
代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き施米とし
て郷土の村民を救いました。代官幕府へ上申のため、
江戸に旅立つ時一切の責任は我にあり我もし帰らずば
、念佛一遍も唱えてほしいと申されました。山中代官
の民情対する至誠は幕府当局を動かして免租の恩命さ
え下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、
竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくの報恩
碑です。
石畳の参道を進みます
参道中ほどの石碑です
少し先には耳の神様です
狛犬です、カエルみたいな顔です
茅葺の拝殿です
本殿も茅葺です
説明版です
安久津八幡神社本殿
安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく
火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記
録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札な
どの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社
殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度
ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寬保3年(
1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏9代重定の
代、宝暦5年(1755)に再建されたものです。三間
社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗といいます。棟の両
端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な
形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が
優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指
定有形文化財に指定されました。
もともと本殿は、現在地の北、八幡山中腹に近いとこ
ろにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿
などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や
山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在してい
ます。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、
いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にか
けての円墳です。本殿の左手裏に見ることができる古墳
は、鳥居町3号墳、4号墳です。
山形県有形文化財「八幡神社本殿」
昭和3年8月1日 指定
高畠町教育委員会
拝殿前に御神木の杉です、目通り幹囲4m程でしょうか
では、次へ行きましょう
国道113号線を東へ進むと、右側に道の駅たかはたが在ります
すぐ先の左側(北側)に安久津八幡神社が鎮座します
参道は蛭沢側を渡った南側から始まっているようです
大きな赤い一ノ鳥居は南に500mも先に有ります
駐車場は参道西側に有りますが、道の駅たかはたを利用しました
大きな一ノ鳥居です、川の南側に建ちます
安久津八幡神社です
参道を進みます
ニノ鳥居です
鳥居の脇に置かれている「じじばば石」は、かつての石鳥居の柱のようです
山形県指定重要文化財は阿久津八幡宮、本殿、舞楽殿、三重塔です
境内の案内板です
参道右手の三島池です
池の北側に鳥居が見えます
岩駒稲荷です
厳島神社の祠は斜めになっています
参道西側の三島池の中島に三重塔です
説明版です
安久津八幡神社と三重塔
安久津八幡神社の成り立ちは、貞観2年(860)に
慈覚大師の発願により阿弥陀堂が建立され、その後、前
九年の役の際、源義家が安倍一族を平らげ、鎌倉の鶴岡
八幡をこの地に勧進したとされていますが、定かではあ
りません。当時盛んに行われた神仏習合の考えから、阿
弥陀信仰が八幡信仰に変わって行ったとも考えられます
。神社は、置賜地方を支配した長井氏、伊達氏の時代に
は「東八幡宮」とも呼ばれ、最も栄えた時期でした。広
大な境内には、別当神宮寺、学頭金蔵院、宗徒頭千殊院
をはじめ十二坊がありました。鎌倉時代最古の民間文庫
として知られている金沢文庫(神奈川県)には、弘長3
年(1263)「出羽国屋代庄八幡宮」で修行する能海
・湛忍という二人の若い僧が、それぞれ仏書を書写して
入庫したものが今でも残されており、当社の古さを物語
っております。
三重塔は、本来寺院伽藍の一つですが、明治の神仏分
離令によって、本社内の寺院が廃絶し、その後の火災な
どにより寺院が失われたため、三重塔のみが残りました
。方三間、銅板葺(当初杮葺、後瓦葺)で、三島池の中
島に建つ、置賜地方唯一の層塔です。三重塔は最初、寛
永二年(1625)に米沢の鈴木十左衛門、高畠の鈴木
平右衛門を施主として建てられましたが、寛政二年(1
790)に烈風により倒れたため、寛政5年(1793
)から伊達郡鳥取村山口右源次義高を棟梁として再建に
着手し、同9年(1797)に完成したものです。当時
の祝宴の盛大さは、小郡山武田家文書などからうかがい
知ることができます。
山形県指定有形文化財「八幡神社三重塔」
昭和30年8月1日 指定
高畠町教育委員会
手水舎です
参道の中央に舞楽殿が建って居ます、参道からは横を見ている形になります
東から、こちら側が正面です
説明版です
舞楽殿と安久津延年
石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向い
東向きに建つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間
の宝形造、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあ
り、屋頂には石造の路盤と宝珠が置かれます。舞楽
殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋
の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室
町末期のものと考えられています。
本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会
、法要などに舞われたといわれています。安久津で
は9月15日の秋の例大祭で、神社に奉納されます
。それ故地元では長い間「神楽舞」として継承され
、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。舞は、
「振鉾式(燕舞式)」「拝舞」「三躰舞」「太平楽
」「眺望楽」「蛇取舞」「姥舞」の七曲が伝えられ
、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲
を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚
児舞」とも呼ばれます。舞は、舞師である大地権大
夫家に、一子相伝の世襲制のもと、44代にわたり
代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡
熊野社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指
導していました。安久津延年は、比較的古式をとど
めている舞として、昭和63年に町指定無形民俗文
化財として指定され、平成5年には国の「記録作成
等の措置を講ずべき無形の民族文化財」に選択され
ています。
山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」
昭和30年8月1日 指定
高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」
昭和63年3月18日 指定
高畠町教育委員会
正面には子育て地蔵尊が向かい合っています
地蔵尊の北側の石碑です
説明書きが在ります
山中神明宰
当地屋代郷一帯は、宝暦・明和年間水害旱害、冷害
で大不作でした。それに天明3年の大凶作で餓死者が
出る程の不況でした。この民苦と窮状を察して、当地
代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き施米とし
て郷土の村民を救いました。代官幕府へ上申のため、
江戸に旅立つ時一切の責任は我にあり我もし帰らずば
、念佛一遍も唱えてほしいと申されました。山中代官
の民情対する至誠は幕府当局を動かして免租の恩命さ
え下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、
竹森村、深沼村の村民が感激を後世に遺すべくの報恩
碑です。
石畳の参道を進みます
参道中ほどの石碑です
少し先には耳の神様です
狛犬です、カエルみたいな顔です
茅葺の拝殿です
本殿も茅葺です
説明版です
安久津八幡神社本殿
安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく
火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記
録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札な
どの記録から、明応9年(1500)伊達尚宗により社
殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度
ごとに再建されてきました。現在の本殿は、寬保3年(
1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏9代重定の
代、宝暦5年(1755)に再建されたものです。三間
社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗といいます。棟の両
端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な
形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が
優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指
定有形文化財に指定されました。
もともと本殿は、現在地の北、八幡山中腹に近いとこ
ろにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿
などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や
山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在してい
ます。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、
いずれも横穴式石室を有する7世紀後半から8世紀にか
けての円墳です。本殿の左手裏に見ることができる古墳
は、鳥居町3号墳、4号墳です。
山形県有形文化財「八幡神社本殿」
昭和3年8月1日 指定
高畠町教育委員会
拝殿前に御神木の杉です、目通り幹囲4m程でしょうか
では、次へ行きましょう