鳥の山展望台へは、近畿自然歩道の一部を通り
観音寺の裏山(南側)の上の高台へ向かいます

高雄山観音寺前から道標を西へ向かいます

道路脇の擁壁に「鳥ノ山展望台」の案内板です

コンクリート舗装された急な道路を登って行きます、次の交差点も左です

ようやく峠状の所が見えて来ました

近畿自然歩道の案内板です

ここから近畿自然歩道をはずれて「鳥ノ山展望台」へ向かいます

イノシシ出没!!通行注意です、イノシシが歩道脇を掘り起こしていた跡が見られます

東屋が見えて来ます

淡路和歌の路の石碑です
鳥の山
あはぢ島 かよふしるべも 立つけぶり かすみにまがふ すまの明ぼの
寂蓮法師(百治百首)
淡路島に渡る舟をよぶ合図を送るため 火を焚くと その煙が須磨の夜明けの日に紛れて見分けがつかないことだま
寂蓮法師・・・
俗名を藤原定長といい、幼い頃に藤原俊成の養子となり、32歳で出家し

鳥の山のプレートです(ポートビル前に有ります)
その昔、海を渡るとき、迎え舟をよぶために「しるしの煙」という合図の火をこの付近で焚き、対岸の船頭に知らせた。
舟を出すことができる場合、須磨から火を焚いて返事をしたが、霞や霧で煙が見えないことがよくあったと言われている。
淡路島 かよふしるべも たつけむり 霞にまかふ 須磨のあけぼの
寂蓮法師(百治百首)

足元に岩屋港と明石海峡対岸の神戸市垂水区から須磨区を見ました

「せきれい丸」遭難者慰霊碑です

建立説明版です
昭和20年12月9日午前9時15分ごろ、松帆崎沖合で、淡路聯絡汽船「せきれい丸」(34トン)が、定員超過と風波のために転覆、349名が遭難した。(死者・行方不明者304名、生存者45名)
当時は戦後の混乱期で、十分な供養もなされないまま今日に至ったが、このたび明石海峡の架橋工事が始まるのを機に、犠牲者の慰霊とともに平和と海上安全の願いをこめて、この塔を建立した。
昭和62年12月9日
「せきれい丸」遭難者慰霊碑建立会

復興基準点です

淡路サービスエリアの大観覧車が見えました
では、次は「松帆の浦」へ行きましょう
観音寺の裏山(南側)の上の高台へ向かいます

高雄山観音寺前から道標を西へ向かいます


道路脇の擁壁に「鳥ノ山展望台」の案内板です


コンクリート舗装された急な道路を登って行きます、次の交差点も左です


ようやく峠状の所が見えて来ました


近畿自然歩道の案内板です


ここから近畿自然歩道をはずれて「鳥ノ山展望台」へ向かいます


イノシシ出没!!通行注意です、イノシシが歩道脇を掘り起こしていた跡が見られます


東屋が見えて来ます


淡路和歌の路の石碑です
鳥の山
あはぢ島 かよふしるべも 立つけぶり かすみにまがふ すまの明ぼの
寂蓮法師(百治百首)
淡路島に渡る舟をよぶ合図を送るため 火を焚くと その煙が須磨の夜明けの日に紛れて見分けがつかないことだま
寂蓮法師・・・
俗名を藤原定長といい、幼い頃に藤原俊成の養子となり、32歳で出家し

鳥の山のプレートです(ポートビル前に有ります)
その昔、海を渡るとき、迎え舟をよぶために「しるしの煙」という合図の火をこの付近で焚き、対岸の船頭に知らせた。
舟を出すことができる場合、須磨から火を焚いて返事をしたが、霞や霧で煙が見えないことがよくあったと言われている。
淡路島 かよふしるべも たつけむり 霞にまかふ 須磨のあけぼの
寂蓮法師(百治百首)

足元に岩屋港と明石海峡対岸の神戸市垂水区から須磨区を見ました


「せきれい丸」遭難者慰霊碑です


建立説明版です
昭和20年12月9日午前9時15分ごろ、松帆崎沖合で、淡路聯絡汽船「せきれい丸」(34トン)が、定員超過と風波のために転覆、349名が遭難した。(死者・行方不明者304名、生存者45名)
当時は戦後の混乱期で、十分な供養もなされないまま今日に至ったが、このたび明石海峡の架橋工事が始まるのを機に、犠牲者の慰霊とともに平和と海上安全の願いをこめて、この塔を建立した。
昭和62年12月9日
「せきれい丸」遭難者慰霊碑建立会

復興基準点です


淡路サービスエリアの大観覧車が見えました

では、次は「松帆の浦」へ行きましょう
