次郎長町は、富士市役所の北約9kmmのところ
県道72号富士白糸公園線で富士山南西面に登って行きます
中野信号を左(西側)へ、県道76号富士富士宮由比線です
しばらく進んで、千貫松市場とスポーツクラブアルーザの在る交差点信号を右(北)へ
富士宮市との境を道路で辿る様に上って行きます
四国パック株式会社この先400mの青い看板の在る交差点を右へ入ると
四国パック(株)の直ぐ先の右側に白髭神社が鎮座します
神社手前の道路脇に車を止めさせて頂きました
*Googleマップには神社の表示は有りません、次郎長記念碑で検索して観光マップで場所を特定できました
神社前から富士山が見えました
道路右手に天然記念物標柱です
道路脇に次郎長記念碑です正確には「大侠次郎長開墾記念碑」です
紀念碑の説明石碑です
記念碑
次郎長町は明治7年大侠清水次郎長は石野56万㎡約76町3反開発を経て以来一寒村より今日の繁栄をもたらしたのであり、此の大事業を成した先駆者次郎長の志を尊び、町名を次郎長町とし、今日の発展を逐るに至つ繁栄を念願した部落の先輩は、信仰の中心となる神社の無い事を憂い此の地え白髭神社を祭神し以来部落の信仰を集めた、居るのであり併て次郎長開墾の碑も建立した。此の度明治百年を記念した渡辺数太郎は、渡辺長作氏の意志を継ぎ、当境内覆盆・平4205の9番地416㎡、同富士市八王子町一丁目小野得一氏も隣地132㎡を当町に寄贈せらる。拠って此の厚意を感謝する為、茲に町内相計り此の碑を建た次第である。
昭和43年10月16日
(読めないところも有りました)
境内左側に永録稲荷大明神です
右に白髭神社です
由来記石碑です
由来記
霊峰富士を朝な夕なに仰ぎ、駿河の海を一望に眺める当次郎長町は、明治7年清水次郎長の開拓に依る土地であります。約10年間に渉る開拓事業は不成功に終わり、明治17年に次郎長が引揚げた後は、茫々たる原野に戻りましたが、後の町村制施行に伴い、遠く山梨県や旧安部郡を始め、近隣より入植者が相次ぎ現在の集落の基礎が出来たのであります。
大正12年秋、時の有志渡辺長作氏は、部落に鎮守の神が無い事を憂いて隣村神成の氏神社の旧殿を買収し、是を無償提供されました。また神域は、有志の無償貸与に依り郷党相和して部落鎮護の氏神社を建立したのであります。
御神体は、旧安部郡大河内村有東木の氏神社の開光白髭大権現を分神して、至来1月17日と10月17を例祭として、長く祀ってきたのであります。
時は流れて昭和43年10月16日に、明治以降100年を記念して渡辺長作氏の嫡男数太郎氏は、親の意志を継ぎ、境内の別碑に記された無償貸与の土地416㎡を寄贈され、小野得一氏も隣地132㎡を寄贈されました。
然しながら此の時、社殿は長年の風雨に痛み、氏子一同の深く憂慮する所でありましたが、昭和53年、時の氏子総代白鳥正一氏は社殿再建の為に率先奔走して各界に働きかけ氏子一同も欣然として再建費拠出の運びとなりっました。また、当地に本部を置く宗教法人普明会教団深い御理解を示され社殿建立の為の莫大なる金品の御寄附を為され、氏子一同も、これに依り境内の拡張を計画し、地主小野得一氏の厚志に依り境内隣地の山林1022㎡を取得いたしました。また郷土屴身の有志の方々には、望郷の念禁じ難く、主を享け育った氏神社の為にと浄財を贈られました。尚、市内有志の法人個人の方々からも多額の御寄附を仰ぎ、敬神崇祖の念の薄れた今日にもかかわらず、近郷に誇る優美荘重なる社殿と境内の竣工を見ました事は、氏子一同の深く悦びとする所であります。
昭和53年10月17日 氏子一同
白髭神社の鳥居の右手に、市指定のヒイラギです
説明版です
富士市指定天然記念物
白髭神社のヒイラギ
樹高・6.5m、目通り1.9m、
指定・昭和56年8月1日
<案内>モクセイ科モクセイ属 雌株
樹冠は広大で均整がとれて美しい、樹勢は旺盛で、松岡瑞林寺のヒイラギ(市指定)と共に市内においては巨木であり珍しい存在である。
昭和56年12月1日
富士市教育委員会
北側の白髭神社由来記石碑の前から手水舎の裏側を通して見ました
南側から見上げました
東側から
では、次へ行きましょう
県道72号富士白糸公園線で富士山南西面に登って行きます
中野信号を左(西側)へ、県道76号富士富士宮由比線です
しばらく進んで、千貫松市場とスポーツクラブアルーザの在る交差点信号を右(北)へ
富士宮市との境を道路で辿る様に上って行きます
四国パック株式会社この先400mの青い看板の在る交差点を右へ入ると
四国パック(株)の直ぐ先の右側に白髭神社が鎮座します
神社手前の道路脇に車を止めさせて頂きました
*Googleマップには神社の表示は有りません、次郎長記念碑で検索して観光マップで場所を特定できました
神社前から富士山が見えました
道路右手に天然記念物標柱です
道路脇に次郎長記念碑です正確には「大侠次郎長開墾記念碑」です
紀念碑の説明石碑です
記念碑
次郎長町は明治7年大侠清水次郎長は石野56万㎡約76町3反開発を経て以来一寒村より今日の繁栄をもたらしたのであり、此の大事業を成した先駆者次郎長の志を尊び、町名を次郎長町とし、今日の発展を逐るに至つ繁栄を念願した部落の先輩は、信仰の中心となる神社の無い事を憂い此の地え白髭神社を祭神し以来部落の信仰を集めた、居るのであり併て次郎長開墾の碑も建立した。此の度明治百年を記念した渡辺数太郎は、渡辺長作氏の意志を継ぎ、当境内覆盆・平4205の9番地416㎡、同富士市八王子町一丁目小野得一氏も隣地132㎡を当町に寄贈せらる。拠って此の厚意を感謝する為、茲に町内相計り此の碑を建た次第である。
昭和43年10月16日
(読めないところも有りました)
境内左側に永録稲荷大明神です
右に白髭神社です
由来記石碑です
由来記
霊峰富士を朝な夕なに仰ぎ、駿河の海を一望に眺める当次郎長町は、明治7年清水次郎長の開拓に依る土地であります。約10年間に渉る開拓事業は不成功に終わり、明治17年に次郎長が引揚げた後は、茫々たる原野に戻りましたが、後の町村制施行に伴い、遠く山梨県や旧安部郡を始め、近隣より入植者が相次ぎ現在の集落の基礎が出来たのであります。
大正12年秋、時の有志渡辺長作氏は、部落に鎮守の神が無い事を憂いて隣村神成の氏神社の旧殿を買収し、是を無償提供されました。また神域は、有志の無償貸与に依り郷党相和して部落鎮護の氏神社を建立したのであります。
御神体は、旧安部郡大河内村有東木の氏神社の開光白髭大権現を分神して、至来1月17日と10月17を例祭として、長く祀ってきたのであります。
時は流れて昭和43年10月16日に、明治以降100年を記念して渡辺長作氏の嫡男数太郎氏は、親の意志を継ぎ、境内の別碑に記された無償貸与の土地416㎡を寄贈され、小野得一氏も隣地132㎡を寄贈されました。
然しながら此の時、社殿は長年の風雨に痛み、氏子一同の深く憂慮する所でありましたが、昭和53年、時の氏子総代白鳥正一氏は社殿再建の為に率先奔走して各界に働きかけ氏子一同も欣然として再建費拠出の運びとなりっました。また、当地に本部を置く宗教法人普明会教団深い御理解を示され社殿建立の為の莫大なる金品の御寄附を為され、氏子一同も、これに依り境内の拡張を計画し、地主小野得一氏の厚志に依り境内隣地の山林1022㎡を取得いたしました。また郷土屴身の有志の方々には、望郷の念禁じ難く、主を享け育った氏神社の為にと浄財を贈られました。尚、市内有志の法人個人の方々からも多額の御寄附を仰ぎ、敬神崇祖の念の薄れた今日にもかかわらず、近郷に誇る優美荘重なる社殿と境内の竣工を見ました事は、氏子一同の深く悦びとする所であります。
昭和53年10月17日 氏子一同
白髭神社の鳥居の右手に、市指定のヒイラギです
説明版です
富士市指定天然記念物
白髭神社のヒイラギ
樹高・6.5m、目通り1.9m、
指定・昭和56年8月1日
<案内>モクセイ科モクセイ属 雌株
樹冠は広大で均整がとれて美しい、樹勢は旺盛で、松岡瑞林寺のヒイラギ(市指定)と共に市内においては巨木であり珍しい存在である。
昭和56年12月1日
富士市教育委員会
北側の白髭神社由来記石碑の前から手水舎の裏側を通して見ました
南側から見上げました
東側から
では、次へ行きましょう