木原地区は、袋井市役所の西南西約3kmのところ
県道413号線旧東海道を西へ川井信号を過ぎると木原地区です
木原地区に入って県道413号線の北側を走る旧道に面して許禰神社が南向きに鎮座します
目印は、一里塚(再現)が有ります
鳥居前の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口です、旧東海道に南面しています
郷社 式内 許禰神社です
傍らの徳川家康公腰掛石です
説明版です
許禰神社(木原権現社)
遠江では平治元年(1159年)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てらあれました。袋井市城でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことがわかっています。
木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。
許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
木原権現社の神主を代々つとめた木原家には、「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。
由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが熊野権現社の由来だと記されています。
当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
平成12年8月
袋井市教育委員会
古戦場 木原畷です
旧東海道の説明版です
鳥居です
参道左手に目的のクスノキです(南東側から)
南側から、目通り幹囲6.5mの巨木です
南西側から
参道に戻って北側から見ました
西側の神池には厳島神社です
カエルの石像が有りました、平和50年を六蛙える(戦後50年記念に建てられたようです)
参道を振り返ってクスノキを見ました
橋を超えると
手水舎です
拝殿です
軒下の額です
本殿覆い屋です
由緒沿革の説明版です
許禰神社
祭神 速玉男命
伊弉册命
事解男命
由緒沿革
木原権現由来記によれば文武天皇大宝2年紀伊国熊野権現を勧請して社を建て、徳川家康慶長5年旧社領70石を再興し同10年神殿を造営せらる、明治6年郷社に列す。
木原権現由来(原文のまま)
木原権現観請之事
木原の社は熊野権現なり。人皇四十二代文武天皇の御字木原郷に一河の長流あり、強雨のおり、ことに水たかくして田畠をひたす。邑民悲しひ。
大宝二年(約一三〇〇年前)春三月里人各集り長堤を築く堤置たる芝のうへに白幣あらはれ、いつとなく鳥余多くむらがり来て其のよそほひ常ならざれば皆人あやしき心地し侍る。其の折から傍に在りける童児忽にはしりて日く我は是熊野権現なり、此所わが霊地にして鎮座する事久しといえども世人知事なし今此地を犯事なく我を祭は、水亡難を除き、いよいよ五穀栄へ国民穏かなるべしと宣ひ・而あからせ給ひ皆人寄異の思ひをなして有難事かきりなし。
則木原のなにかしあるし、詫宣にまかせ其の地をあらため御柱を建て、件の白幣を納木原権現と称し、各うやまひあがめまつる夫より五穀ゆたかに国民饒に日々に神徳をまし給ふ誠にありがたかりし事ともなり。
御神体之事
昔天神七代にあらせ給ふ伊弉諸尊、伊弉冉尊と申奉る。
此の二神の尊国土を開き、万の物をうみ給ふ、其至極康大の功徳すでに成て後、伊弉冉尊神退ましけれハ紀州熊野有馬の村に納めた、
熊野大神是なり、此神の御子を速玉男其の弟を泉津事解男と申奉り是熊野三所権現と云。
年中行事の案内です
拝殿右手の境内社です、左に八幡宮、右に須賀神社です
本殿右手に境内社が集められています
左から、八面神社・若比神社・社森神社・天白社です
左から天白舎・白山神社・天満宮・大きな神明宮・熱田神社です
左から居森神社・住吉神社・稲荷神社・右端は読めませんでしたが大国神社のようです
では、次へ行きましょう
県道413号線旧東海道を西へ川井信号を過ぎると木原地区です
木原地区に入って県道413号線の北側を走る旧道に面して許禰神社が南向きに鎮座します
目印は、一里塚(再現)が有ります
鳥居前の道路脇に車を止めさせて頂きました
参道入口です、旧東海道に南面しています
郷社 式内 許禰神社です
傍らの徳川家康公腰掛石です
説明版です
許禰神社(木原権現社)
遠江では平治元年(1159年)以後、しばしば熊野新宮を造営する費用をまかなうための国に指定されたので、多数の熊野神社が建てらあれました。袋井市城でも、土橋で熊野権現社、松袋井で熊野十二社神社が現在でも祭られていることから、古代末期より和歌山県の熊野山とはたいへん深い関係にあったことがわかっています。
木原の許禰神社は、かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられています。
許禰神社は、古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、一説には古代の許禰神社が木原権現社になったともいわれています。
木原権現社の神主を代々つとめた木原家には、「木原権現由来記」という全長17mもある巻物が残されています。
由来記には、ある日、木原の子供に熊野の神がのり移り、この地に熊野の神を祭れば、洪水を防ぎ、穀物の実りを豊かにするお告げがありました。天災に苦しんでいた村人は、早速に熊野の神を祭った。これが熊野権現社の由来だと記されています。
当時の民衆が神様に対して切なる願いを記録した貴重な資料となっています。
平成12年8月
袋井市教育委員会
古戦場 木原畷です
旧東海道の説明版です
鳥居です
参道左手に目的のクスノキです(南東側から)
南側から、目通り幹囲6.5mの巨木です
南西側から
参道に戻って北側から見ました
西側の神池には厳島神社です
カエルの石像が有りました、平和50年を六蛙える(戦後50年記念に建てられたようです)
参道を振り返ってクスノキを見ました
橋を超えると
手水舎です
拝殿です
軒下の額です
本殿覆い屋です
由緒沿革の説明版です
許禰神社
祭神 速玉男命
伊弉册命
事解男命
由緒沿革
木原権現由来記によれば文武天皇大宝2年紀伊国熊野権現を勧請して社を建て、徳川家康慶長5年旧社領70石を再興し同10年神殿を造営せらる、明治6年郷社に列す。
木原権現由来(原文のまま)
木原権現観請之事
木原の社は熊野権現なり。人皇四十二代文武天皇の御字木原郷に一河の長流あり、強雨のおり、ことに水たかくして田畠をひたす。邑民悲しひ。
大宝二年(約一三〇〇年前)春三月里人各集り長堤を築く堤置たる芝のうへに白幣あらはれ、いつとなく鳥余多くむらがり来て其のよそほひ常ならざれば皆人あやしき心地し侍る。其の折から傍に在りける童児忽にはしりて日く我は是熊野権現なり、此所わが霊地にして鎮座する事久しといえども世人知事なし今此地を犯事なく我を祭は、水亡難を除き、いよいよ五穀栄へ国民穏かなるべしと宣ひ・而あからせ給ひ皆人寄異の思ひをなして有難事かきりなし。
則木原のなにかしあるし、詫宣にまかせ其の地をあらため御柱を建て、件の白幣を納木原権現と称し、各うやまひあがめまつる夫より五穀ゆたかに国民饒に日々に神徳をまし給ふ誠にありがたかりし事ともなり。
御神体之事
昔天神七代にあらせ給ふ伊弉諸尊、伊弉冉尊と申奉る。
此の二神の尊国土を開き、万の物をうみ給ふ、其至極康大の功徳すでに成て後、伊弉冉尊神退ましけれハ紀州熊野有馬の村に納めた、
熊野大神是なり、此神の御子を速玉男其の弟を泉津事解男と申奉り是熊野三所権現と云。
年中行事の案内です
拝殿右手の境内社です、左に八幡宮、右に須賀神社です
本殿右手に境内社が集められています
左から、八面神社・若比神社・社森神社・天白社です
左から天白舎・白山神社・天満宮・大きな神明宮・熱田神社です
左から居森神社・住吉神社・稲荷神社・右端は読めませんでしたが大国神社のようです
では、次へ行きましょう