磐梯本寺上地区は、磐梯町役場の北約600mのところ
役場前から北へ、JR磐越西線のガードをくぐって、県道64号線の信号を過ぎて大谷川の橋を渡って坂道を上ると
道路左に恵日寺入口です
少し下ると山門前の広場です
車を止めさせて頂きました
参道脇に説明版です
恵日寺
磐梯町指定文化財第7号
昭和53年9月25日指定
恵日寺は磐梯山と号し、真言宗豊山派に属します。
古く古絵図にあり、明治初年の廃仏毀釈によって一時廃寺となりました。
塔頭であった観音院のもとに法燈をうけつぎ明治37年5月寺号の官許を得、更に大正2年「磐梯山恵日寺」として堂燈の修復をし再興の緒として今日に至っています。
たび重なる火災や廃寺のために丈六の薬師如来像、四天皇より下賜された銅印・瑠璃尺など多くの貴重な宝物類を散逸しました。
しかし、現在残された文化財の中で「白銅三鈷杵」が国重要文化財として指定され、「鉄鉢」が国重要美術品として認定されています。
「白銅三鈷杵」は忿怒形三鈷ともいわれ正倉院に二口、日光二荒山発掘物の一口に見られるのみで、最古の形式をあらわし徳一の請来した所持品と考えられる貴重な文化財です。
「鉄鉢」は永享7年の銘があり高台に皿型をもつのは例がありません。
「絹本着色恵日寺絵図」は国重要美術品認定・県重要文化財として指定され、往時における伽藍の盛況をしのぶことができます。
このほか「紙本墨書田植歌」や「日光・月光菩薩面」「薬師如来光化仏一具・七躯」が県の重要文化財として指定されています。
恵日寺の本堂は元禄15年(1703)に建立されたもので、300年の星霜を経た建造物です。
廃寺された後に旧塔頭を元に「恵日寺」を復興しましたが、これと区別して、国指定の史跡を「慧日寺」と書くことにしています。
平成6年10月
文化庁
磐梯町教育委員会
もう一枚
史蹟慧日寺跡
国史跡指定年月日 昭和45年12月4日
追加指定年月日 昭和61年8月6日
慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で、磐梯山を中心に栄えたのは会津の山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。
平安時代の中頃には最も興隆をきわめ、その勢力は寺僧300・僧兵数1000・子院3800坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われます。
しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残してすべて焼失しました。
江戸時代には歴代の会津藩主によって保護されたものの明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。
慧日寺跡は遺構がよく保存されているため昭和45年に国史跡に指定され、更に61年に追加指定を受け現在その調査・研究が続けられています。広さ約15万㎡の史跡内には多くの建物礎石が露出し、往年の慧日寺の一端をかいま見ることが出来ます。
平成6年10月
文化庁
磐梯町教育委員会
山門です
本堂の東側境内端に目的のケヤキです
南側から、境内東端の沢に面しています
西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
一度境内を出て、北側の慧日寺跡前(北側)から見ました
近づいて見上げました
慧日寺跡です、中門と金堂が再建されています
慧日寺跡の案内図です
説明版です
日本遺産 会津三十三観音めぐり
~巡礼を通して観た往時の会津文化~
慧日寺跡
慧日寺は、今からおよそ1200年前の平安時代初期、南都(奈良)で法相教学を学びながら、理想の修行の地を求め、若くしてこのみちのくの地磐梯へと移った徳一という僧によって開かれた。
徳一は後に菩薩・大師とも称され会津仏教文化の礎を築き、最澄と繰り広げた「三一権実論争」は有名である。
また、慧日寺は平安時代を通じて勢力を拡大し、最盛期には会津一円のみならず、越後の一部まで領したと伝えられている。
明治2年(1869)に廃寺となった寺跡は、昭和45年(1970)に国史跡に指定された。磐梯町の史跡整備事業により、平成21年度までに金堂・中門など中心伽藍が復元整備され、古代儀礼空間が悠久の時を越えて蘇った。
極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー
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役場前から北へ、JR磐越西線のガードをくぐって、県道64号線の信号を過ぎて大谷川の橋を渡って坂道を上ると
道路左に恵日寺入口です
少し下ると山門前の広場です
車を止めさせて頂きました
参道脇に説明版です
恵日寺
磐梯町指定文化財第7号
昭和53年9月25日指定
恵日寺は磐梯山と号し、真言宗豊山派に属します。
古く古絵図にあり、明治初年の廃仏毀釈によって一時廃寺となりました。
塔頭であった観音院のもとに法燈をうけつぎ明治37年5月寺号の官許を得、更に大正2年「磐梯山恵日寺」として堂燈の修復をし再興の緒として今日に至っています。
たび重なる火災や廃寺のために丈六の薬師如来像、四天皇より下賜された銅印・瑠璃尺など多くの貴重な宝物類を散逸しました。
しかし、現在残された文化財の中で「白銅三鈷杵」が国重要文化財として指定され、「鉄鉢」が国重要美術品として認定されています。
「白銅三鈷杵」は忿怒形三鈷ともいわれ正倉院に二口、日光二荒山発掘物の一口に見られるのみで、最古の形式をあらわし徳一の請来した所持品と考えられる貴重な文化財です。
「鉄鉢」は永享7年の銘があり高台に皿型をもつのは例がありません。
「絹本着色恵日寺絵図」は国重要美術品認定・県重要文化財として指定され、往時における伽藍の盛況をしのぶことができます。
このほか「紙本墨書田植歌」や「日光・月光菩薩面」「薬師如来光化仏一具・七躯」が県の重要文化財として指定されています。
恵日寺の本堂は元禄15年(1703)に建立されたもので、300年の星霜を経た建造物です。
廃寺された後に旧塔頭を元に「恵日寺」を復興しましたが、これと区別して、国指定の史跡を「慧日寺」と書くことにしています。
平成6年10月
文化庁
磐梯町教育委員会
もう一枚
史蹟慧日寺跡
国史跡指定年月日 昭和45年12月4日
追加指定年月日 昭和61年8月6日
慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で、磐梯山を中心に栄えたのは会津の山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。
平安時代の中頃には最も興隆をきわめ、その勢力は寺僧300・僧兵数1000・子院3800坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われます。
しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残してすべて焼失しました。
江戸時代には歴代の会津藩主によって保護されたものの明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。
慧日寺跡は遺構がよく保存されているため昭和45年に国史跡に指定され、更に61年に追加指定を受け現在その調査・研究が続けられています。広さ約15万㎡の史跡内には多くの建物礎石が露出し、往年の慧日寺の一端をかいま見ることが出来ます。
平成6年10月
文化庁
磐梯町教育委員会
山門です
本堂の東側境内端に目的のケヤキです
南側から、境内東端の沢に面しています
西側から、目通り幹囲5.0mの巨木です
一度境内を出て、北側の慧日寺跡前(北側)から見ました
近づいて見上げました
慧日寺跡です、中門と金堂が再建されています
慧日寺跡の案内図です
説明版です
日本遺産 会津三十三観音めぐり
~巡礼を通して観た往時の会津文化~
慧日寺跡
慧日寺は、今からおよそ1200年前の平安時代初期、南都(奈良)で法相教学を学びながら、理想の修行の地を求め、若くしてこのみちのくの地磐梯へと移った徳一という僧によって開かれた。
徳一は後に菩薩・大師とも称され会津仏教文化の礎を築き、最澄と繰り広げた「三一権実論争」は有名である。
また、慧日寺は平安時代を通じて勢力を拡大し、最盛期には会津一円のみならず、越後の一部まで領したと伝えられている。
明治2年(1869)に廃寺となった寺跡は、昭和45年(1970)に国史跡に指定された。磐梯町の史跡整備事業により、平成21年度までに金堂・中門など中心伽藍が復元整備され、古代儀礼空間が悠久の時を越えて蘇った。
極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー
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