ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

福島県福島市、笹谷下横堀「愛宕神社のヒイラギ」(市指定)です!!

2022-11-13 18:31:43 | 文化財・樹木
 笹谷下横堀地区は、福島市役所の北西約7kmのところ

 市役所前の福島市役所入口信号から国道4号線を南西へ、国道114号の交差点仲間町信号を右(西)へ進みっます

 国道13号線の交差点陣馬町信号の直ぐ先(西側)の信号を斜め右(北西)へ入ります、二つ目の信号から県道3号線です

 また二つ目の信号も県道3号線斜め左へ、JR東北本線の高架を潜ります、真っ直ぐに進んで国道13号福島西道路を潜り

 松川を上松川橋で渡ると、大東銀行笹谷支店先に信号を左(西)へ道成りに進んで

 東北自動車道と東北中央自動車道のの高架を潜ると、

 間も無く緩いカーブの内側にヒイラギです

 前の道路脇に車を止めさせて頂きました

 天然記念物標柱です

 説明版です
  福島市指定天然記念物
    愛宕神社のヒイラギ
 ヒイラギは、暖地性の常緑広葉樹で極めて成長の遅い樹木であるため、巨樹になるためには幾久しい年数が必要になります。また、その葉は厚くて硬く、若木では大きな歯牙があるので、昔から厄除けの木として門や屋根さされたり、門の両側に植えられたりしました。
 本樹は、建物建立当時、神社の鬼門(東北)に魔除けとして植えられたものだと言われています。また、古くから愛宕神社の神木として親しまれ保護されてきたために、本幹も枝張りもよく整い全国的にもまれにみる巨樹となりました。
 太さは、根回り周囲4.7m、目通り囲2.55m、樹高約12m、樹齢500年で、枝下の陰面積は113㎡あり、樹姿、樹冠もまた特殊の美観を有しています。
 長い間成長してきたこのヒイラギも次のことを守りながらいたわってください。
      記
 1,樹木の幹にふれないこと
 1,枝や葉を切り取らないこと
 1,生育をさまたげるような変更をしないこと
   昭和38年12月13日指定
     福島市教育委員会

 南側から

 境内南端から見ました

 西側(社殿脇)から

 北西側から

 愛宕神社社殿は、東向きに鎮座します

 では、次へ行きましょう
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福島県福島市、町庭坂上清水「清水観音の大モミ(市指定)と霊木千手のもみ」です!!

2022-11-13 12:31:17 | 巨樹・大木
 町庭坂上清水地区は、福島市役所の西約10kmのところ、福島盆地の西端から少し登ったところです

 市役所前の福島市役所入口信号から国道4号線を南西へ、国道114号の交差点仲間町信号を右(西)へ進みっます

 国道13号線の交差点陣馬町信号からは県道310号線となって更に西へ、

 陸橋でJR東北本線を越え東北新幹線の高架を潜ると突き当り信号を右(北)へ、また直ぐの信号を左(西)へ、
 
 道成りに進み国道13号福島西道路の高架を潜り、まだまだ県道310号線を進みます、東北自動車道の下を潜り、山形新幹線の踏切を渡ります

 県道3号フルーツラインの信号を超えると市道に変り道幅が狭くなります

 道成りに北西へ、大善集落で「福島植物園」の案内板のところを左(西)へ鍵の手に曲がって進むと福島西部広域農道の交差点を越えます

 道成りに進むと「清水観音堂300m」の案内板があります

 南東向きの参道入口です

 参道西側の墓地の駐車場を利用させて頂きました

 参道には、石塔が並びます

 参道の両側に、モミノキが在ります

 左側のモミの大木です

 右側のモミノキが目的の巨木です


 天然記念物標柱です

 説明版です
  福島市指定 天然記念物
    清水観音の大モミ
 モミは、日本特産の常緑針葉樹で、深根性であるから、土質が深く適当な湿気を含む傾斜地を好む傾向があります。
 材質は軽軟で辺材と心材の区別がなく淡黄白色又は淡黄褐色なので、天井板、戸板器具類、碁盤、将棋、太鼓の胴などに用いられます。一般に短命性なので古木や老木は少ないものでありますから、本樹のような巨樹古木は貴重なものです。
 この大モミは、根回り8m、目通り5m、第一枝下は5mで、樹高は約38mあり枝張りは東西へ9.6m~10m、南北へ11.5m~8.4m広がり、枝下の面積は約30.0㎡あります。
 福島市現存のものでは、茂庭の白鳥神社の大モミと共に一番太いモミで樹齢は、約350年~400年と推定されます。
 (白鳥神社のモミは、切り株になっています)
 枝張りも充分であり、見事な樹容を呈しているので、学術研究の資料及び福島市の自然を記念するにふさわしいものとして、天然記念物に指定されました。
 長い間生育してきたこの大モミを、つぎのことを守りながらいたわってください。
   記
 1,枝を折ったり幹を傷つけたりしないこと。
 2,生育をさまたげるような変更をしないこと。
    昭和45年11月13日指定
      福島市教育委員会
 
 南西側から

 西側から

 では、参道石段を進みましょう

 中段から振り向いてモミノキを見ました

 山門は鐘楼門(仁王門)です

 山門を潜った境内石垣の端に杉の大木です(南西側から)

 北側から

 観音堂前からから

 信達三十三観音第八札所 観音堂です

 観音堂本堂です


 説明版です
  恭惟 信達札所第8番 清水観世音之御本体は、千手千眼観世音菩薩なり。 
  今を去る凡そ1176年の昔、行基菩薩の御作、徳一大師御開眼、京清水観世音と同木同作にして、征夷大将坂上田村麻呂将軍の守り本尊なりと、蒦記に見ゆ。
 人皇50代桓武天皇、大同年間、田村麻呂をして東国の賊を討たしめ賜う。将軍命を奉じ、討伐の軍を進め、日夜信仰深くし、御守の観世音菩薩を陣中至心に念ぜしに、霊験即ち現し観世音菩薩空中に出現し在し、千の御手より、千の箭を放ち給いけるに、さしも強大なりし凶賊も直ちに鎮定することを得たりき。
 将軍、軍を纒めて凱旋上洛の途次、この地に至りしに不思議なるや、大悲の尊像微動だにせられ給はざること恰も大磐石の如し。その夜、観世音菩薩夢に告げて曰く、我この地に因縁有り、永く留まりて普く衆生を利済せんと。
 茲に於て、将軍一宇を建立し、以て尊像を安置し奉れり、現観世音即ちこれなり。
 爾来歳有り幾百春秋、普く諸人信仰の霊地なり、噫時なるや、適、天文の頃(約450年前)山火事あり、此の惜しむべき将軍建設の堂宇は一朝にして焼失せり、然りと難も、大悲の尊像のみは獨り猛火を篭い出て給いその災いを受け給わりき、そして霊験今に盡るなり。
 当山6世梅国魁樹?和尚山火を慮り。寛政年間(約200年前)現奥の院及び石造の御堂を建立す。
 同11世瑞巖桂芳和尚当寺壇越 十万有縁信心の施主を勸發し各位寄進の浄財に基き、陰3月18日例祭の因み大般若一会を厳付し以て、今上天皇陛下、聖壽萬歳を祝祷し奉り、次に各々施主の家門繁栄、子孫長久、萬難消滅、諸願成就、諸縁如意吉祥の祈祷を修行し是を永代とし永代大般若講と稱す、時に天保3年にして現昭和7年に至る、正に100年を閲す、仍ち正和年例祭当日講中各位と相謀り100年記念とし、更に講員の勸發と共に各位信心施主の御助勢を忝し倍旧の盛と永久の続行とを祈願するの信念より、茲に伏して篤志の浄財を仰ぎ発願の圓成を・すものなり。
  昭和60年陰3月18日
   清水17在現住 素嶽 誠・
*旧仮名遣いを変更・一部読めない文字が在ります

 境内北東側には、大黒様です

 恵比寿様

 布袋尊

 滝の流れのそばには、お不動様です

 観音堂の西側に「霊木 千手のもみ」です


 標柱です

 根元から見上げました

 では、次へ行きましょう

 
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福島県福島市、杉妻町「板倉神社のケヤキ」です!!

2022-11-13 06:28:37 | 巨樹・大木
 福島市杉妻町は、福島県庁のすぐ東側です
 
 県庁の駐車場を利用させて頂きました

 阿武隈川の川沿い北東向きに板倉神社が鎮座します

 縣社 板倉神社社號標です

 境内に上がって阿武隈川の大仏橋を見ました

 新しくなった拝殿は、逆光になってしまいました

 本殿です

 説明版です
  ふるさとの歴史を残そう、福島藩板倉氏
   ■福島城と板倉氏
 蒲生氏や上杉氏の支城であった福島城は、延宝7年(1679)より独立した福島藩が成立し、本多氏(1679~1682)堀田氏(1686~1700)の支配を経て板倉氏が3万の領地を支配した。
 福島城板倉氏初代藩主は板倉重寛で、元禄15年(1702)12月に信濃国坂城の領主から移封され、それ以降167年間、明治2年(1869)まで12代にわたり板倉氏の藩主が続いた。
 領地は信夫郡の内23ケ村、伊達郡の内8ケ村を統治し、その他上総(千葉県)と三河(愛知県)に分領があった。
 板倉氏の長きにわたる支配を通じ、現在の福島の町の基礎となった福島城と、その城下町の町割形成などが完成した。
   ■板倉神社
 板倉神社には藩祖である板倉重昌(1588~1638)と板倉重矩(1617~1673)父子が祀られている。
 島原の乱において総大将であった重昌公は、寛永15年(1638)総攻撃により討死したが、遺志を引き継いだ重矩公の働きは幕府軍の勝利に大いに貢献した。
 ここ板倉神社は、勝負運の神様で受験生の信仰を集めている。また、福島藩板倉家は幕末までの長きに渡り当地を治め、繁栄させたことから領民との絆も深く、縁結びや商売繁盛にもご利益があるという。
   ■板倉氏支配時代の福島城内堀と外堀
 現在の県庁舎(西庁舎・本庁舎・東庁舎)と第一小学校、福島議員会館を取り囲むように土塁がめぐらされ、その上に鉄砲狭間158の窓をもつ塀が建てられ、その外側に深い水濠が掘られていた。郭内総坪数は75790坪もあった。
 外濠は今の天神橋あたりから、荒町の裏通り(東裡)を北上し、平和通り、水道局を経て、三井ビル北側あたりから北町中側南~長楽寺北を通り阿武隈川につながっていた。
   福島中央ライオンズクラブ


 社務所再建の説明版です
  歴史を継承し、新たな文化の創造へ
   板倉神社社務所再建について
 東日本大震災(2011年)により甚大な損傷を被り、明治10年に創建された歴史と由緒ある社殿(本殿・拝殿)の解体を余儀なくされましたが、関係各位の格別なるご厚意より兵士絵25年(2013)4月に見事に再建されました。同じく壊滅的な損傷により解体に至った社務所棟の再建については、なかなか目途が立たない状況でありましたが、震災から5年を経過して、ようやく整備計画が整い再建の運びとなりました。
 板倉神社境内の整備により、かつて賑わいがあった隅畔の復活を目指し、御倉邸等などの市内名所と連携した新たな散策拠点として整備し、福島市の礎を築いた板倉家の歴史や功績を伝えることができる社務所として再建することが板倉神社総代会ならびに板倉温故会の総意となっています。
 現在、福島市ふれあい歴史館の閉館に伴い、板倉神社所蔵の歴史資料(福島市に寄託収が仮保管されておりますが、広く一般市民に公開されていない状況にあります。寄託資料は、約160年におよぶ板倉家の福島藩主時代をはじめ、太祖板倉勝重、藩祖板倉重昌に関する貴重な資料等、近世から近代に至る福島市の歴史を明らかにするうえで極めて重要な資料であり、市民共有の財産として積極的に市民へ公開し、歴史教育等に大いに活用することが求められており、このたびの社務所再建から、将来的な歴史博物館の整備気運が高まることを期待するものです。
   ~板倉神社総代会・板倉温故会~
 *境内西側に新しく作られるようです

 本殿南側に印塚です


 
 目的のケヤキは、道路北側の杉妻稲荷神社の前に在ります

 南東側から、紅葉が綺麗になっています

 南側から、横倒しの様になっていますが目通り幹囲5.0mの巨木です
 
 南西側

 西南西側から

 西側から

 北西側から

 北側から見ました

 福島城と城下町の案内板です
   二の丸御外庭
 紅葉山公園一帯は、福島城の二の丸御外庭で、福島藩主板倉重寛が池、茶屋、築山などを設けました。
 池は、三河国八ッ橋(愛知県知立市八幡町)のかきつばたの名所をまねてつくった言われています。

 杉妻稲荷神社鳥居です


 社殿です

 説明版です 
  ふるさとの良さを見つけよう
   〈寺社仏閣〉杉妻稲荷神社
 この神社は、いま福島市役所分庁舎となっている元郵便局の北通りに、杉妻城(福島城)の艮(東北)の守りとして西向きに建っていたといわれる。つまり、行止まりだったのが、郵便局の建設と道路の開さくのため、明治の初めに現在地に移されたものである。
 単に杉妻社、杉妻明神ともいわれ、杉妻の里の産土神として崇敬されてきた。建物は天保11年(1840)の再建であるがこれよおり先の享保21年(1736・元文元年)3月には、神祇管領から、正一位を贈られたほどである。
 小堂ながら、中に画家一明斎の絵馬や、文人金沢椿山の書などが奉納されていて、信仰の厚さと広がりを示している。
    ディスカバー・マイカントリー
    福島信夫ライオンズクラブ
 

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