山入大岐居地区は、金山町役場の南南西約15kmのところ
金山町役場前から国道252号線を只見川沿いに上流へ向かいます
道成りに約12kmで標識に従って「⇐布沢」へ県道352号線です
道成りに約7.2km山入川に沿って進むと

道路左手にユキツバキ群落の説明版と大クロベの標柱が建っています
すぐ先の右側道路脇空き地に

車を止めさせて頂きました



南西側から道路より一段高い所に大クロベです

観音様の大クロベの標柱です


南南西側から、幹周423cmの大木です


南側から、根元の土が無くなって根が浮いています



南東側から見ましたが、手前の木々が濃くて良く解かりませんでした

説明版です
山入川流域のユキツバキ
山入川流域のほぼ全域にユキツバキが自生しています。
県道布沢・横田線の、横田から松坂峠までの10kmにわたり分布しており、二本最大の規模と思われます。
ここの林床は、ブナ・ユキツバキ群落とミズナラ・ユキツバキ群落が多く見られます。
ユキツバキ群落を当地域ではツバキモタと呼び、歩くことができないほど密生しています。
ユキツバキはツバキ科の常緑低木で、北陸地方から東北地方の日本海側の多雪地帯に分布しています。
花は4月下旬から5月上旬に咲き、赤い花弁と黄色いおしべが平開しているのが特徴です。
歌手の小林幸子さんが歌ったユキツバキはこの花です。

大クロベの東側斜面にユキツバキを見る事が出来ます

斜面の上にも多くのユキツバキが確認出来ました

説明版です
松坂峠古戦場
松阪峠は、天正17年(1589年)8月2日、山ノ内氏勝と伊達政宗軍が戦った古戦場です。
大岐境の沢から布沢浮島間の各所で激しい戦いが繰り広げられました。
氏勝は今まで縁戚であった野尻・川口・布沢が伊達軍に取りこまれ苦戦し、一旦氏勝は横田中丸城に立て籠りました。
しかし、食糧も乏しく再起を期そうと8月12日大塩の中山城、只見の水窪城に退きます。
そして、越後の上杉に援軍を求め、横田中丸城を奪還し、再度、松坂峠を越え伊達軍が集結している布沢攻撃の作戦をねりました。
ところが伊達軍の策にはまり、松坂峠で包囲され鉄砲の猛攻を受け氏勝は自害しようとしました。
郎党が身代わりになって討ち死したのに助けられ、最期の持久戦に耐えようと再度固め城である大塩中山城、只見水窪城に立て籠もりました。
その後、豊臣秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は米沢に下向させられ、氏勝は全ての領地を没収されました。
そして天正18年(1590年)10月2日越後に落ち、失意のうちに69歳で生涯を閉じたと言われております。
山ノ内家は身内の武将に領地を分け与え、城を造らせ防備を強化しました。これを「山ノ内七騎党持城」と言います。
横田中丸城(金山町横田)=山ノ内宗家の持城
野尻牛首城(昭和村野尻)、沼沢丸山城(金山町沼沢)、川口玉縄城(金山町川口)、西方鴫城(三島町西方)、滝谷岩谷城(三島町滝谷)、桧原丸山城(三島町桧原)、の七つの城で、会津南西部に山ノ内の勢力圏を築いていました。
6か所に固城を作っています。固城は敵の攻撃から守る防衛を主とする城で、籠城として使われていました。
大塩中山城(金山町大塩)、只見水窪城(只見町只見)、和泉田川原崎城(南会津町和泉田)、梁取窪城(只見町梁取)、崎杉山城、布沢城(只見町布沢)で伊南川、奥只見地域を固める城とも言います。
「持柵、掻揚」といわれる戦闘用出城が51カ所に作られています。
近くでは高根沢、西部、田沢などにあったと言われています。
では、松坂峠を越えて次へ行きましょう
