ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

福島県檜枝岐村、居平「愛宕神社のケヤキ」です!!

2023-08-13 18:24:00 | 巨樹・大木
 居平地区は、檜枝岐村役場のある下ノ原地区の直ぐ南側の地区です

 続きです、「開拓者墓標の桂」の直ぐ南側に

 井籠造り板倉です

 説明版です
   井籠造り板倉〈いろうづくりいたくら〉(村重要文化財)
 最も古い形の板倉で、柱を使わず厚さ10cmほどの板を井籠のように組み合わせたもので、釘などの金具は一切用いない。
 屋根には下葺き板をのせ、その上に樺の皮を敷き、さらにその上に楢の割板を葺く。建築の年代は定かでないが。建築の様式としては奈良の正倉院と同じで、建築史上重要な文化財である。
      檜枝岐村

   板倉集落
 檜枝岐村は壁土がないため、昔から住家も倉も木造だった。そのため大切なものを納めた倉を火事から守るため住家から離れた所に建てた。
 最も古いものは「井籠造り」で柱を使わず厚い板を井籠のように組み屋根は下葺板、樺の皮、割板を重ねて葺く。
 次が「落とし板倉」で柱に横板を落として重ねた上に桁をかけ、下葺きの上に楢の割板を重ねて葺く。
 「貫板倉」は軸組構造として貫が使用されており。縦方向に板を打ち付ける。
 おおむね以上のような3工法があった。
     檜枝岐村

*桧枝岐の集落の南側のミニ尾瀬公園入り口近くの国道沿いには、3工法の板倉が展示されています、屋根には大きな石が載せられています。
 

 井籠造り板倉の左下には、平野家先祖平右衛門の墓です

   平野家先祖平右衛門の墓
 江戸時代、檜枝岐村駒ケ岳山系には「ハイタカ」と呼ばれる小型の鷹が生息しており、村では毎年、鷹の児を殿様に献上することとなっていた。
 当時、平右衛門は肝煎(名主)であったが、ある年どうしても鷹の児を取ることができなかった。すると2人の村人が「名主はわざと鷹の児を取らなかった」と代官様へ訴えたため、平右衛門は村民の代表として若松の牢獄に入れられ、万治3年(1660)に牢死したという。
 正面には「南無阿弥陀仏」と刻まれ法号はない。左側面には「平野平衛門」の刻名があるが年号等は判読不明である。
    檜枝岐村
 *昔は、讒言による牢死(処刑)が行われていたのです、現代ならばネットの炎上の様なものかもしれませんね~

 南へ移動します、檜枝岐中央のバス停です

 間も無く愛宕神社の入口です

 参道を進みます

 鳥居です

 愛宕神社です

 石段を上ります

 中段に説明版です
    御愛宕様
 村内を一望できる高台にあり、火難、水難、風難とあらゆる際の悪を鎮め、守り給う神として村人の尊崇が高い。
 享保20年(1735)3月の建立で、苔むした石段の数は108を数える。
 例祭は5月12日で、当日は古典芸能檜枝岐歌舞伎を奉納する。
      檜枝岐村
 *下の写真は昭和33年の祭礼の写真の様です

 更に残りの約50段を上ります

 石段を登り切ると祠前の鳥居です

 祠を左脇から見ました

 祠の後ろに目通り約3m(目測)ケヤキの大木です

 北側にもケヤキの木です

 北東側下に、先ほどまでいた井籠造り板倉が見えています







 淡い紫の花を咲かせるシャジンです

 また長く成りそうなので、このへんで続きにしましょう
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福島県檜枝岐村、下ノ原「開拓者の墓印の桂」です!!

2023-08-13 06:33:25 | 巨樹・大木
 下ノ原地区は、檜枝岐村役場のある地区です

 檜枝岐村役場の無料駐車場に車を止めさせて頂いて、国道沿いの各所を廻りました

 駐車場入り口の案内板(南側から)です

 檜枝岐村役場です


 駐車場の観光案内板です


 国道352号線に出て南へ100m程で国道右手に、桂の樹冠が見えて来ました

 星立庵前です

 六地蔵様です

 由来の石碑です
   六地蔵由来
 此の地は昔から冷害年は餓死年と言い多くの餓死者を出したことがあった。
 働ける者のみが生きるため「間引き」と言う悲惨な行為があったとか…その霊を慰めるために建てられた六体の稚児像である。
   あはれきに 旅衣の袖も ぬれにけり
     桧枝岐なる稚児の像見て・・・川上㐂久子作
 
 *川上 喜久子(かわかみ きくこ、明治37年(1904)~ 昭和60年-(1985)は、第11回文學界賞受賞の小説家です。
 *㐂の字は、常用漢字にも人名漢字にも指定されていないため、喜久子で表記されるようです。

 星立庵です

 説明版です
   星立庵
 昔、星家において建立したので、この名がある。延徳(1489~1492)の頃、星家が最も隆盛を極めた時代に建立されたと伝えられる。
 一時は住職が存在したこともあるという。また、小学校の校舎として明治44年(1911)まで使われた。
 現在は、御堂と言って村民共有の庵として仏教信仰の中心をなしている。
     檜枝岐村

 境内の大木は黒檜?でしょうか

 境内北側の殉難碑です
    笠井少佐以下七士 殉難之碑
 昭和13年2月18日、旧陸軍熊谷飛行学校において、冬季雲中及び雪中におけえる気象状況研究調査目的で飛行中、不幸にも当村片貝沢山中に墜落し、各種方法手段を盡し捜索するも発見できず、3月16日に至り、当村在住猟師かが発見す。
 遭難者中笠井大尉の一週間、飢えと寒気に耐へ乍ら書綴られた遺書は、その頃多くの国民の熱涙をさそい、実に悲痛な殉職の姿であった。
 この碑は、当時福島県南会津支廳長が発起人となり、昭和14年8月現地片貝沢出口に建立、昭和33年8月電源開発(株)奥只見ダム建設により、大津也岐平に移し、昭和57年9月現在本村星立庵の地に移し、永く慰霊するものなり。
   昭和57年9月  福島県檜枝岐村建立
 *埼玉県にあった熊谷飛行学校から飛び立った陸軍機が 厳冬期の銀山平に墜落した。
 対ソ連戦に備えての耐寒訓練がったが、 大寒波のため操縦レバーが凍結し操縦不能に陥ったためだった。 
 乗組員7人は全員死亡したが、特に笠井少佐は猛吹雪の中で7日間生存し、 機内壁面、地図、カメラのケースの裏にまで家族等に遺書を残していたという。
 *魚沼市大沢の天満宮にも慰霊碑があり、慰霊祭が行なわれているそうです。

 国道沿いに点在する場所を「歴史文化財めぐりMAP」で確認しましょう、六地蔵様は⓶ですね

 大きな切り株が有ります

 説明版です
   開拓者の墓印
 明治中頃まで、これより北に住家はなく、この付近は倉や墓石が並ぶ、村外れであった。
 本村集落の北側道脇に、唐松(枯死)、桂、黒檜の三本が等間隔にあり、古老の話によると村を開いた人で、南より治部右エ門、勘右エ門、勘左エ門の墓印だと云う。
 承和(834~848)の昔、越後の国より藤原常衡、大友師門、熊谷勘解由が来たと伝えられる所から、或いはこの人達ではと思われる点もある。
    檜枝岐村


 南側から見ました、これが勘左エ門の黒檜の切株ということなのでしょうか

 すぐ南側にカツラです

 東側から、勘右エ門の墓印なのでしょうか

 南東側から、目通り幹囲5.5mの巨木です

 南側から見ました


 さらに南側には「虫歯様」です

 説明版です
   星家先祖の墓(虫歯様)
 星家第4代越後守吉邦(1633没)の墓であるが、村人からは「虫歯様」と呼ばれている。
 この墓の下手にある桂の木に「奥州仙台安保原地蔵、口中一切ノ病」と神の表に書き、裏には願主の年齢と性別を書いた札を下げると、口中の一切の病気にならず、虫歯の痛みも治るという信仰があった。
 今でもお盆になると多くの線香があげられ、頭を垂れている村人の姿が見られる。
    檜枝岐村

 このへんで、続きにします
 
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