ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県秩父市、別所「法泉寺(秩父三十四観音霊場24番札所)」です!!

2023-09-17 18:30:57 | 秩父三十四観音霊場
 別所地区も荒川の西側です、法泉寺は秩父市役所の西南西約2.5kmのところ

 秩父市役所の南側の証人通りを西へ約1.7km道成りに進んで、荒川を佐久良橋で渡って

 丁字路を左(南)へ県道72号線です、約1kmで道路左てに駐車場がります

 直ぐ先に法泉寺の参道入口です

 24番の石碑です

 説明版です
  市指定史跡 札所24番
    光智山 法泉寺
 この札所は、三間四面方形づくりで、江戸中期になるもので、唐様を随所に配し、変化のある意匠をこらして妙味ある本堂であります。
 特に唐戸は凹字形に後退してつけ、左右に仁王像をまつり、八角柱で変わったつくりをみせています。
 本尊は聖観世音一木造りの坐像、像高25cm、室町時代の作で、宋朝風のものといわれます。
 養老元年の昔、越前の大徳泰澄、夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものといわれ、本尊も当山より現われし観音像を安置奉祀したといわれます。
 又、武州恋ケ窪の遊女、口内の病に悩んでいたところ、秩父の修行僧が1本の楊枝を与え、白山の観音を信じてもちうべしと教えられ、歓んで信心し、かの楊枝で口内をそそいだところ、忽ちにして癒えたという縁起があります。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定


 南東向きの参道石段を上ります

 石段上部から振り返ると武甲山が綺麗に見えました

 少し左に観音堂です

 手水舎です

 説明版です
   市指定史跡
     秩父札所第二十四番 光智山法泉寺
 この札所は三間四面方形づくりで江戸中期になるもので、唐様を随所に配し変化のある意匠をこらして妙味のある本堂であります。
 特に唐戸は、凹字形に後退してつけ、左右に仁王像をまつり、八角柱で変わった造りをみせております。
 本尊は、聖観世音一本造りの坐造で、高さ25cm室町時代の作で宋朝風のものと云われます。
 養老元年の昔、越の大徳泰澄、夢のお告げにより、この霊地に加賀の白山を勧請したものと云い、本尊も彼の山より表わし像を刻み、まつったという。
 又武州恋が窪に慈悲深い遊女がこの観音を信じ、修行毎朝怠らず食を供したと云う縁起があります。
 昭和48年4月檀信徒関係者各位の浄財により屋根の改修を終わったところであります。
   昭和40年1月25日  秩父市教育委員会指定

 六地蔵様です


 正面から観音堂です

 軒下の鰐口と額です

 境内の東屋のテーブルに巡礼道の説明が有りました

 では、次へ行きましょう
 
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埼玉県秩父市、寺尾「音楽寺(秩父三十四観音霊場23番札所)」です!!

2023-09-17 06:30:33 | 秩父三十四観音霊場
 寺尾地区は、荒川の西側にあるミューズパークの北側入口の近く、秩父市役所の北西約3kmのところ

 秩父市役所前から国道140号線を北へ、約400mで「上野町」信号を左(北西)へ国道299号線です

 約500mで「本町」信号を右(北)へ進みます、約200mの「秩父駅入口」信号を左(西北西)へ、県道208号線です

 約1kmで荒川を秩父公園橋で渡ります、道成りに坂道を上がって行きます

 約1.6kmでミューズパークの百花園駐車場に入ります

 秩父巡礼道・文化財マップです

 東側の出入り口を東へ進むと音楽寺参道です

 音楽寺本堂です

 説明版です
  市指定史跡 札所23番
    松風山 音楽寺
 この札所は、秩父地方屈指の景観地であります。
 観音堂は三間四面ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが江戸中期の大きなお堂です。
 内陣には唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しています。
 本尊聖観世音は一本造りで檜材で、像高81cm、室町時代の作です。
 梵鐘も明和5年の銘が昭和32年2月、市指定の文化財になっています。
 明治17年田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだという逸話ものこっています。
 天長年間の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折、この地の優れたるに感じ、聖観世音像を安置し山路を開きたもうとき数多くの小鹿現れて大師を案内せしめたため小鹿坂の地名となったという縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定

 観音堂へ向かいましょう


 本堂西側に稲荷神社です

 稲荷神社の先を右へ上って行きます

 観音堂境内に上がると、左手に六地蔵様です

 右手には、山号の通りの松の木です


 秩父困民党無名戦士の墓の石碑です
 *「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」とあり、この碑の趣旨を刻した副碑には、「債鬼の脅迫をのがれ家に老幼をおき山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民」あるいは「時の明治政府に対して自らの持つ実力で立ち向かった秩父困民党」などという文言がある。
 この碑が建てられたのは1978年だが、当時の研究は、秩父事件指導者が経済的に村内上層に属していたことを明らかにしつつあった。
 また秩父事件の持つ政治性については、困民党発起人の一人である落合寅市が、「圧制ノ政治ヲ回復シ自由ノ大義ヲ敷カントスルヲ暴動ト称スル者ゾ」(「秩父殉難志士慰安建碑趣意書」)と力説していた。寅市に始まる秩父事件顕彰運動の原点は暴動と呼ばれることを拒否することにあったのである。
 秩父事件の政治性を否定して持ち上げようとする「褒め殺し」的言説は、その後も、趣を変えては生起している。近年では稲田雅洋氏の「困民党の論理と行動」(『自由民権と近代社会』2004所収)が秩父事件を「日本の民衆が、政治権力を独自の方法で相対化していった貴い記念碑的な道筋」と評している。音楽寺のこの碑こそ、そのような言説が存在した「記念碑」にほかならない。
文責・吉瀬総(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』No.159)・・・秩父事件研究顕彰協議会HPより一部抜粋させて頂きました

 手水舎です

 鐘楼です

 銅鍾です

 説明版です
   市指定有形文化財 音楽寺の銅鍾
 この鐘は、高さ120cm、直径69.7cm、乳頭108個がついている。
 この鐘の特色は、聖観音、不空羂索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の順に6観音が鐘の下部周囲に鋳造されていることである。
 鐘は、明和5年(1768年)に旧材を使用し、再鋳したものであるが、銘文に・・・
   明和五歳舎戌子小春吉旦
      松風山音楽禅寺十五世
      現住沙門大隋義海銘
   治工 下野佐野天明新町
      大川太郎兵衛、藤原宗封
   最鋳幹事 八木五右衛門
        小河磯右衛門
        同 八兵衛
 明治17年11月世にいう秩父事件は、この鐘を打ち鳴らして秩父へなだれ込んだといわれています。
   昭和32年2月8日指定   秩父市教育委員会
     


 音楽寺観音堂です

 軒下の鰐口と額です


 説明版です
   指定史跡
     秩父札所第23番 松風山 音楽寺
 この札所は、秩父地方屈指の景勝地にあります。
 本堂は三間四面ふき寄せ二重垂木、向拝はありませんが江戸中期の大きな堂であります。
 内陣は唐様の須弥壇に立派な厨子を安置しております。
 本尊聖観世音は一本造桧材で高さ81cm室町時代の作で地方色のある像といいます。
 梵鐘も明和5年の銘があり、昭和32年2月市指定文化財になっております。
 明治17年田代栄助を総理とする秩父事件の群衆もこの鐘を鳴らして秩父町に崩れこんだと云う逸話ものこっております。
 天長年間の昔、慈覚大師は関東霊地開拓の折この地の優れたることに感じ、聖観世音像を安置し、山道を開きたもうとき数多くの小男鹿現われて大師を案内したため小鹿坂の地名となったと云う縁起があります。
   昭和40年1月25日   秩父市教育委員会指定



 伝説の額です
 畠山基国の家来、内山源蔵
  内山源蔵は、老母より音楽寺の守仏の御影を懐中に入れ出陣し勝利を得、後に出家して観音を供養したと云う


 ミューズパーク側の遊歩道から秩父公園橋です

 武甲山も見えました

 では、次へ行きましょう
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