旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

正明寺(しょうみょうじ)

2022-05-25 21:29:19 | 滋賀
2022年5月24日、お参りしました。
縁起書より「黄檗宗法輪山と号す。聖徳太子創建の伝承を持つ正明寺は、勅建寺の由緒を誇る日野渓屈指の名刹である。戦国の兵火に焼失後、僅かな霊佛のみが守護されていたのを、江戸初期に郷人頓宮宗右衛門が古刹再興を発願して奔走、時の大本山永源寺管長であった一絲文守国師に法援を懇請し、その旨が後水尾法皇に奉上されて叡慮を動かした。時あたかも改築中であった禁裡御所の一棟と白銀が下賜され、1647(正保4)年の頃に正明寺再建が成就、直ちに黄檗禅の大櫖龍渓大和尚を開山禅師として迎え、以後、檀信徒を始め近江日野商人達の篤き帰依を得つつ、黄檗専門道場の寺格を整え、近江に於ける黄檗宗の中心寺院としての歴史を刻み、数多くの名僧を輩出してきた。桃山建築の粋を凝らした檜皮葺本堂と、本尊千手観世音菩薩像および脇侍像が国の重要文化財に指定され、禅堂安置の大日如来像が滋賀県指定文化財であるなど、江戸時代初期に於ける黄檗禅の弘法と、その心を伝える数々の文化財を蔵し、佛法興隆の法燈を絶ゆることなく輝かせている。」
滋賀県日野町松尾560
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石碑

縁起書

石灯籠

寺標



参道







山門













手水舎



禅堂

本堂(重要文化財)
「桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、軒唐破風造、背面下屋附属、檜皮葺。開基は聖徳太子と伝えられ、一時は天台宗の寺院として栄え、子院93を数えるほどの大寺であったが、桃山時代には堂宇の殆どを失ったと云う。その後、1645(正保2)年頃に永源寺の一絲和尚の尽力により後水尾上皇から内裏の建物を賜って現在の本堂が再興され、1664(寛文4)年には黄檗宗龍渓和尚が中興開山となって、ついで二代寂宗和尚、三代晦翁和尚が寺観を整えたと伝える。この本堂は寺記にあるように、内裏の建物の主要な部材を用いて再建されたものと認められる。この時に内裏や唐破風造の向拝などを設けて仏堂建築としたものである。正面の蔀戸、側面の舞良戸、疎垂木小舞打ちの軒などの意匠から内裏の建物であったことがしのばれる。」







玄関

庫裏

臨鏡亭

庭園









経蔵(滋賀県指定文化財)
「経蔵は、黄檗僧、鉄眼道光から後水尾上皇に献上された鉄眼版一切経が正明寺に施入されたことにより建造された。内部には四天柱で支えられた180個の引き出しが入る造り付けの棚が設けられ、中に鉄眼版一切経が納められている。1696(元禄9)年の竣工から現在まで、当初の材料、形態をよく残している。県内でも類例の少ない建築として貴重である。」







開山堂






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比都佐(ひつさ)神社

2022-05-25 18:11:37 | 滋賀
2022年5月24日、お参りしました。
説明書より「弥生時代すでに開けていたこの辺りは古くから、『ひさ野』と呼ばれており、幾つかの村の総社として久野の郷を守護する久野大明神がこの地に祀られた。平安時代大津坂本の日吉山王社の荘園となり、山王七社の十禅師宮が合祀されその名が村の名として残った。境内の宝篋印塔は鎌倉時代1304(嘉元2)年の造立で日本有数の優れた石造物として重要文化財に指定されており、春の例祭に奉納し渡御をするほいのぼりも大変めずらしい」
地名「十禅師」の歴史
「私達の集落は、昔から十禅師と呼ばれています。この地名は非常に古く、室町時代初め1421(応永29)年の記録に、『十禅師』と見えるのが最も古い記録ですが、この地名が生まれたのはもっと古く、次のように、平安時代の中頃までさかのぼります。961(応和元)年、有名な藤原道長の祖父にあたる藤原師輔が死去し、所有地(荘園)の『必佐庄』が息子に譲られました。息子の慈忍は、比叡山延暦寺の境内にあった妙香院の僧でしたが、990(永祚2)年に必佐庄の土地が妙香院に寄付されました。この時から必佐庄が比叡山延暦寺の荘園になり、比叡山の守り、神の『十禅師』が、必佐庄内の比都佐神社に祀られたことから、十禅師という地名が生まれました。」
滋賀県日野町十禅師410
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社標

鳥居

神橋

石灯籠

参道



手水舎



社務所

舞殿





狛犬











拝殿







本殿







西門

宝篋印塔(重要文化財)
「この塔は、刻銘によって、1304(嘉元2)年に造立したことが明らかである。基礎は、書く麺とも輪郭を巻き、格狭間を入れ、内側は、東・南二面は孔雀一対、北面は開花蓮、西面は素面となっている。塔身は、各面とも蓮華座上に、月輪を彫り四仏の種子を配している。笠は、軒付より下に二段、上に七段刻み、隅飾りは三塔身の周囲に溝を彫り丁寧な加工が施してある。基礎と塔身には刻銘があり、造立の内容も知ることができる。この塔は、相輪が欠失しているのは惜しまれるが、造立年次が明らかで、規模が大きく、細部意匠の優秀な遺品として貴重である。」

























末社


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