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荘厳寺

2022-07-16 20:25:57 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「当山は、652(白雉3)年に法道仙人の開基と伝えられる観音霊場である。慶長年間(1596〜)に、徳禅上人が当山に入り、堂宇を修復して再興され、爾来真言宗高野山派の末寺として法幢を輝かした。盛時には本堂への参道沿いに10か寺の塔頭を構えました。宝暦年間(1751~)には社町の朝光寺と鴨川の西光寺(廃寺)を行場とする権現信仰の修験道の寺として交流していたことが伺える。大河ドラマの主人公となった秀吉の軍師・黒田官兵衛の出生地との説を主張する『荘厳寺本黒田家略系図』を所蔵・展示(複製)しており、持仏堂には歴代城主の位牌も安置しています。」
兵庫県西脇市黒田庄町黒田1589
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西脇市観光マップ

黒田里
「播磨国風土記ゆかりの地、託賀郡の章に登場します。黒田里は、土が黒いので里の名としました。中世には一帯が荘園となったので『黒田庄」と呼ばれ、その後自治体名にも引き継がれ、西脇市との合併後も大字名として残っています。黒田里の記述で登場する『袁布(きふ)山は昔、宗像大神の奥津島比売命(福岡県宗像郡の宗像神社に鎮座する三女神の中の一神)が、播磨国の神様の伊和大神の子を身籠もり、この地にやって来て、『私が子を産むときになったので、をふ(=やりとげるの意味)と言った山なので、名づけられました。また、『支閇(きへ)丘』というのは、宗像大神が『子を産む月が尽ぬと言われた地なので名づけられたとあります。この『『袁布山』は、黒田庄町黒田にある『前山」と呼ばれる山が比定されており、『支閇丘』は黒田庄町田高と丹波市山南町井原との境にある『イタリ山』と考えられています。」
軍師・官兵衛の里
「播磨古事」「播磨鑑」「播陽古城記」など江戸時代に編纂された播磨の資料には、黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄町黒田)の生まれとするものが多くあり、西脇市内には官兵衛や黒田家ゆかりの場所が点在しています。ここ黒田集落には、北播磨随一の紅葉の名所として知られ、黒田氏の発症から嫡流の滅亡までを記した「荘厳寺本 黒田家略系図」を所蔵する荘厳寺、黒田氏9代の居城と伝わる黒田城址、城に付随する邸宅跡と伝わり、黒田官兵衛誕生地の石碑が立つ「姥が懐」などのゆかりの地があります。」

播磨黒田氏と黒田城
「播磨黒田氏は、赤松円光(赤松円心則村の弟)を元祖とする赤松庶流の一族です。1351(観応2)年3月円光の子・七郎重光がこの黒田城に移り、播磨黒田氏の始祖、初代となりました。以来その子孫は、九代、二百数十年にわたり、黒田城主として存続しました。八代黒田城主・黒田下野守重隆に男子二人あり、兄が治隆、弟が孝隆です。治隆は父重隆の家督を継いで九代城主となりましたが、元亀の頃(1570年代初め)合戦に敗れて戦死、播磨黒田氏は滅亡しました。それより前、弟の孝隆は、姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており、小寺官兵衛を名のって、播磨の国飾東郡の御着城主・小寺氏の家老となっておりました。この小寺官兵衛が豊臣秀吉の参謀役として有名な黒田官兵衛(如水)です。当地、黒田は、官兵衛の先祖、赤松庶流・黒田氏の根本地であり、しかも黒田官兵衛自身の出生地です。これらは、心光寺旧記等の姫路の古文書、そして当山所蔵の荘厳寺本黒田家略系図の史料研究によって、近年はじめて判明した新事実です。」

塔頭・法音院山門















280段の階段を登ります。



鐘楼堂

梵鐘
「姫路城主の本田政勝氏から1649(慶安2)年に寄進される。」

鎮守社

稲荷社

手水鉢



本堂
「本尊十一面観世音菩薩を祀る。脇侍像仙人の立像台座に慶長16年の墨書がある。」









多宝塔(兵庫県指定文化財)
「本堂近くに立つ、檜皮葺きの屋根に円筒形の2層目が特徴的な多宝塔は建久年間(1190〜)に造立、1711(正徳元)年に再建されている。」







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