2015.8.20(木)曇り 上林の盃状穴(45)は2015.8.14
「盃状穴考」を再読する(2)
国分直一博士は盃状穴の第一人者であるが、「序にかえて」の最後に次の一文がある、これこそ博士の苦悩を端的に表しているのではないか。
盃状穴をめぐる問題は、考古学の立場からも、民俗学・民族学の立場からも、アプローチを必要とする問題であろうと考えている。そればかりでなく、文献史学的にも探りをいれたいものである。しかしながら今日、この呪術的象徴を常に秘めているように思われる盃状穴をめぐる問題に、強い関心を注いで下さっているのは、むしろ野にあって、それ故にかえって、新鮮な問題意識をもっておられる研究者の方々であるように思われる。これらの方々は何んらの権威意識をもおもちでないから、そんなものに妨げられない、新たな発見を引き出すこともあるのだと思うのである。しかしながら筆者は、アカデミックな立場の方々にも、我々の提示する問題への関心をもっていただきたいとお願いしたいと思う。
アカデミックな立場の方々に関心を持ってもらえないとしたら、それは問題の提示の仕方、研究に対する姿勢に問題があるのではないかとふと思うのである。
その国分博士が「盃状穴の系統とその象徴的意味」という論文を書いておられるのだが、いくつか納得のいかない部分がある。
山口県の神田山(こうだやま)古墳の第一号石棺に発見された盃状穴(注1)は古墳時代の盃状穴として有名なものであるが、この石棺が発掘された経緯がどこにも書かれていないし、それを問題にしておられないのである。つまり盃状穴というのは石造物に人為的に穿たれた穴なので、穴そのものに時代を確定する要素は無いのである。石造物の製作年代が解るものについては一応それ以降という風に考えられるが、それとて石造物の素材に既に穿たれていた可能性もあるので、年代を語るのは極慎重にしなければならないことである。
神田山石棺の発掘は松岡睦彦「神田山石棺と山口盆地の盃状穴」(P123~)に詳しい。はっきりとは確認できないが、土中から発掘されたようで、古墳が造営された時には穿たれていたと考えていいようだ。ただ松岡氏も書いておられるように蓋石を設置した後に刻まれたものかそれ以前に刻まれたものかは解らない。
国分氏は発掘の状況については重々知っておられた事と思うが、盃状穴の穿たれた時代を語るにはその盃状穴の発見された状況を第一に公表するのが科学的な考察ではないだろうか。つづく
(注1)昭和55年に山口県神田山石棺群の発掘が行われ、第1号石棺墓の蓋石6枚の内最も北側の1枚(遺体でいえば脚部)に盃状穴21個が発見された。墳墓の石材に刻まれた盃状穴の確認は我が国では最初である。この確認は国分博士によってなされたものである。なお、この盃状穴は山口市歴史民俗資料館で公開されていると、「盃状穴考」にはある。
「盃状穴考」に掲載されている神田山石棺の盃状穴。
これは引地善福寺の盃状穴だが、穴と穴、穴と石材の端を結ぶ溝が一部存在する。神田山のものにも一部あるようで、興味深いところである。
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