2017.9.17(日)曇り
幽霊飴のみなとやさんで「六道の辻の石柱はどこにありますか?」「店の向の辻に立ってますやろ、珍皇寺さんの前にも立ってますがこちらが本物やと思てます」本家争いが始まったが、六道の辻は通りを表していると考えれば、この東西の通り(松原通)が六道の辻でいいのだろう。
みなとやさんの向に六道の辻の石柱がある、そこは西福寺の子育て地蔵尊がある。また通りを東に行くと珍皇寺があり、門前に六道の辻の石柱がある。
六道まいりで有名な六道珍皇寺にいく。六道があの世とこの世の境と言われるとおり、篁堂(たかむらどう)には閻魔さまや小野篁の像が安置してあり、本堂の東には篁が冥府に通ったという井戸がある。とまあ観光材料には事欠かないのだが、ひたすら石材に目をやる。いつの時代か知らないが、阿古屋の塔台座に盃状穴があるのだからここにあってもおかしくはない。石材は新旧いくらでもあるが、盃状穴は見当たらなかった。あの台座にだけ存在するというのは謎である。
篁堂、冥府通いの井戸、石材には事欠かないが盃状穴は無し。
早々に珍皇寺を出て、いよいよ主目的の南無地蔵跡へと急ぐ。珍皇寺から南に東山区役所の裏の通りを下がる。古地図では四天の辻子となっている。やがて道が左にカーブするのだが、これは古地図にもある古くからのおそらく中世に遡るだろう道である。まるで残っていない葬地跡に向かうのになぜかどきどきする。餓鬼草紙に描かれている塚や死骸、粗末な火葬場の様子などが近代的な市街に重なって想像できるのだ。
珍皇寺山門前を南に下る、六波羅裏門通りまでは直線だが、やがて左にカーブし始める。
数枚の古地図で南無地蔵の位置を想像するに、六波羅裏門通りを越えて、道が左カーブしているところ、小島町と梅林町の境の通りを東に入り、東大路から東山警察署のあたりではないだろうか。六道の辻からこの四天の辻子あたりは中世から近世の葬送の道であったと考えられる。
このあたりの小路は通称名が付けられており、ののさん小路と付けられている。小さなののさんがあるためだろう。細い路地と段を上ると東大路に飛び出る。東大路から東山警察署の東一帯が南無地蔵と想像される。