2018.1.2(火)曇り 大栗峠考(39)は2016.6.6参照
大栗峠の謎 弓削道は産業道路(1)
大栗峠の謎について細々と書いてきたが、本当の京街道はどちらなのかという大きな謎が常に脳裏につきまとっていた。今回木住峠遊里道よりも脇道である清水道が広くて立派だという情報を知って(自分の目ではまだ確かめていないのだが)清水道も大栗峠弓削道も近世の物流の道ではないかという仮説が浮かんだ。特に田辺(西舞鶴)ー上林清水ー胡麻新町ー園部ー八木ー馬路の鋳物師村を繋ぐ鉄(地金)の輸送路があったのではないかという考えである。もちろん運ばれるのは鉄だけではなく、米、炭、木材など流通が盛んになれば、人の背で運んでいては間尺に合わないものは水運が活躍したことは周知のことである。しかし日本海側から京に行くには必ず分水界を越えねばならない。田辺から京に向かう最も楽に越えられる分水界は胡麻である。そして田辺から胡麻に向かうには陸路上林を通過するのが最も近道かと思われるのである。ただし大量の荷を運ぶには牛馬に引かせる荷車が通れる広くて傾斜の緩い道が必要である。それが清水道であり弓削道なのである。
木住峠については本来の街道である遊里道より清水道が広い。京に向かうには遠回りなのに清水に向かう道が広いのは清水鋳物師に地金を供給するためではないか。重くて大量に輸送するには牛馬による荷車が必要である。大栗峠弓削道については、他の大栗峠に至る道、志古田道、山田道が人の歩く程度の幅なのにここは広い、しかも急なところはつづれおりになっているのだ。この二つの道が物資輸送の必要性に応じて造られた新しい道であろうと考えるのだ。
山田道と弓削道を分ける「南無大師遍照金剛」の石碑、弓削道はこのように広い。
従来本来の京街道である志古田道が弓削道にその座を奪われたのは、大栗の名のとおり崩壊が厳しく、安定した尾根道の弓削道が使われるようになったからというふうに考えていた。実はそうではなくて、志古田道では荷車用の安定した広い道を作るのが不可能だったからと考えている。
ではなぜ弓削道だったのだろうか。それはその先、つまり和知の上粟野から水運が利用できたからだろう。由良川と桂川にはれっきとした水運の歴史があり、由良川から高屋川、畑川と胡麻までの水運も確認されている。上和知川と胡麻川の水運が確認できれば、上粟野から京までほとんどを船上輸送出来るわけだ。つづく