2018.1.3(水)雪
「北山の峠」(中)金久昌業著に「舞鶴街道の峠」という興味深い文がある。田辺(西舞鶴)から京へ向かう街道についての一文である。京都ー周山街道ー高浜街道ー鶴ヶ岡ー洞ー古屋ー草壁ー大町ー遊里ー木住峠ー岸谷ー別所ー舞鶴、この道は間違いないが大栗峠をめぐる道が通らない(続かない)と書いておられる。大栗峠が京街道であることは、道中の石碑から見てもはっきりしているのだが、大栗峠ー上粟野から先がどう繋がるのか解らないという。寛政11年丹波國大絵図では大町ー弓削ー大栗峠ー上粟野ー下粟野ー下乙見ー篠原ー大迫ー長瀬-塩谷ー樫原ー岩江土(ママ)ー市場(静原)と繋がっている。上和知川を下って篠原で川を渡り由良川右岸を東進するものである。
明治28年陸地測量部地形図では、細谷の部分は左岸を通っている。
当時、右岸の道は開鑿困難だったのだろう。
明治になってからはもちろんこのルートが京へむかう道とされているが、金久氏はこのルートは古くからの街道と言うには納得がいかないとされている。これはわたしも同感で、古来の街道づくりの方法とすれば、上粟野から仏主、仏主峠を越えて三埜から大野に出るのが順当と思うのだ。
大野ダム周辺にあった道しるべ、塩谷と樫原の間の熊坂峠にあったものという。
当初の街道は由良川沿いではなく、おそらく山側の峠を越えたものであろう。
丹波大絵図には上粟野から仏主までは街道が載っているのだが、仏主で行き止まりとなっている。ただこのことはかつてその先の仏主峠越えの街道があったことを示唆している。そうでなければ仏主は点で表されるだろうから。
金久氏は由良川を渡って肱谷(ひじたに)を遡り、肱谷越え(仮称)から海老谷から四谷に出るという壮大なルートを想像しておられるが、これは少し無理があるように感じる。ただ海老坂峠は日本海側と太平洋側を分ける分水界の峠で、木材をはじめとした輸送の峠であり、四ツ谷側しか歩いていないが、弓削道のような状況ではないかと想像している。玉岩地蔵に若狭と縁のある八百比丘尼が祀られているのも興味あることである。
仏主峠の道が廃れて、上和知川沿いの道が京街道になった理由は上和知川の水運があるのではないかと大胆に想像している。弓削道から大栗峠を越えた大量の物資は仏主峠を越えるのは無理で、上和知川の水運を利用した方が効率的だ。ただし上和知川の水運があったことが前提となるが、未だ確認は出来ていない。
このように調査確認しなければならないことが山積みだが、大栗峠をめぐる道を時系列で考察することで、その謎が解明されるのではないだろうか。
【今日のじょん】小雪混じりの寒い日はダウンの上にレインウェアの重装備で散歩に出る。ステロイドの効いている間はそれなりに元気だ。わたしはステ犬じょんと呼んでいるが、かみさんはロイド犬じょんと呼んでいる。