晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

四塚-6 1/6

2018-01-06 | 上林たんけん隊

2018.1.6(土)雨   四塚-5は2017.11.25
 四塚は四つの墓場、葬地があることを前提に考察してきたが、四つにこだわらない他の意味があるのではないかという思いが常につきまとっている。四塚と言われる地域は羅城門付近とされているが、その辺りにこれまで考察してきた塚は無い。経塚(唐橋経田町)、琵琶塚(唐橋琵琶町)は四ツ塚町に隣接しているが、狐塚や光明塚(唐橋井園町)はずいぶん離れている。勝田氏もこのことに関しては気にされており、「四塚という地名は中世都市における境界的な場、刑場、墓地を意味するのではないか」という丹生谷哲一氏の説も紹介されている。

羅城門跡は公園となっているが本来の位置は振り返った九条通の真ん中辺りだそうだ。
 勝田氏は結局四つの塚があることと考えるのが妥当とされているが、わたしはそれ以外の意味があるように思えてならない。数字+塚の地名は三塚とか千塚とかあるが、調べてみると四塚が圧倒的に多いことに気づく。近隣の四塚を訪ねてみようと長浜市の四ツ塚町を調べると、その中に南無地蔵があり驚く。南無地蔵といっても一般的な言葉なので驚くこともないのだが、六道の南無地蔵を訪ねた後だけに妙に気になるところである。四谷地名についてもそうである。東京の四谷はつとに有名だが、スキーで有名な長野県の白馬駅もかつては信濃四ツ谷駅だった。近隣では南丹市日吉町四ツ谷、南区上鳥羽塔ノ森四ツ谷町など見受けられる。いずれも四つの谷とか四つの家などという由来が語られているが、歴史的に矛盾する説もあり承服しがたい。それが何かは解らないのだが、四谷には何か意味がありそうである。ちなみに南区上鳥羽塔ノ森の四ツ谷町は前稿「最勝河原」で紹介した平安期の葬地であることが気に掛かるところである。(最勝河原-6 2017.7.22参照)

 四ツ塚、四ッ谷が数字の四ではなく、何か意味する様な気がするのだが、それが何かはわからない。そういったことをわたしだけでなく、幾人かの研究者も気づいておられることが心強い。
 さて帰りは東寺の周囲をめぐりながらおはぎ屋をめぐったり古い食堂でそばを食べたりしながら歩く。ここで京都新聞に載った「みやこ今昔 大路小路から」という記事を思い出す。

 平安京で作られた大路小路がやがて田畑や宅地として侵食される話である。例えば最大の朱雀大路だって、現在の千本通り(旧)と言われているが、あまりにも狭すぎる。大体大路は24m以上、小路は12mと規定されていたそうだ。平安京オーバーレイマップでみると九条の千本通りから東は中信九条支店辺りまであったようだからとてつもなく広い。不必要な広さが侵食
の原因となったようだが、新聞の記事は八条大宮の東西の道の侵食について書いている。勝手に私有地化した土地を巷所(こうしょ)と呼び八条大宮の東西に南北に巷所があったとされる。そういった経過で大宮通から西が急に細くなっているのだが、こういう状態は堀川通りや壬生通り東西でも顕著で、八条通は駅前と唐橋ではものすごい差となっている。

写真は八条堀川通り、西が急に狭くなり、クランク状になっている。
 これも平安京オーバーレイマップで調べると、駅から堀川通りまでは平安京当時より広く、それより西は当時よりうんと狭くなっている。これもすべて侵食のせいだろう。
 こんなことを考えながら歩いていると街歩きも随分楽しい。おわり

【今日のじょん】


おとーたちは初泳ぎ、じょんは初???。青葉山も大島もうっすらと雪化粧。(5日)

コメント
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