2009.2.12(木)曇り
黄砂が来ているという。良い天気のはずなんだが山が霞んでいる。砂漠というものが人災であれば、黄砂も人災である。砂漠が年々広がっているのだから黄砂も年々きつくなっているのではないか。黄砂については単に空気の汚れと言うだけでなく、病原菌やウイルス、アレルゲンなどの流入という至って迷惑な現象がある。負の部分ばかりで正の部分が無く、防ぐ手だてが無いというのがやるせない。
さて、燃料の薪がしっかり入手できたと思ったらやたら暖かくなってきて、これもマーフィの法則かと思っているのだが、石田君に頂いた薪がほんの少し長いことに気付く。もちろんストーブにくべるものとして用意したわけでないので、さもありなんと言うところだが、半分に切ると短すぎる、帯に短しと言うところである。やむなく3/4位のところをチエンソーで切ってみるのだが、なにしろクロスコンテナにいっぱいあるのだ。そこで武蔵は考えた、荷作り用のテープで1/3位のところをしっかり縛り、端の10cmぐらいのところを一気にチエンソーで切り落とすのだ。束にするのは面倒なところがあるが切断は効率的だ。小西町でもらってきた細い木もこんな感じで、何カ所かをテープで縛り、薪の長さに切れば効率的且つそのまま保管が可能だ。
テープで束ねて保管する。切れ端は土嚢袋に入れて保管。
それにしてもチエンソーというのは枯れ木には弱い、如何に生の間に処理をすべきかが問題なのだが、木小屋が出来ないことには始まらない。
今日のじょん:忠犬は存在するか?(6)
習慣、訓練、本能以上の行動は無いのじゃないかという私の考えには、多くの愛犬家の批判がありそうだ。里見八犬伝以来、犬と人間の関わりには仁義礼智云々といったいわゆる人間独特の精神構造が犬にもあるように錯覚されてきた。忠犬ハチ公に代表される映画や物語が放映、出版され、多くの人々が感動し、涙した。しかし私はハチ公が亡き主人を慕って渋谷駅に通ったとは思えない。ただ、そういう習慣があったということなのではないか。
先日これもテレビ番組で、いつも一緒に行動しているおじさん(飼い主ではない)が転落し、気絶してしまったというのがあった。犬は家に帰って奥さんにワンワン吠えて急を知らし、おじさんは九死に一生を得たという美談なんだが、果たしてこの犬は、「主人が大変だ、奥さんに知らせて救出してもらわなければ」と考えただろうか? つづく。