すご~く寒くてチンチンが引っ込んでしまうような徳島県阿南市です。
太陽は全く出ず厚い雪雲が威圧するように覆いかぶさって僕は縮んでいます
そんな具合で殆ど外に出る勇気もでず「サスペンス小説」でもと思い書き始めました
出ることも無いと言うより多分何処の出版社も相手にしてくれないだろうけど・・趣味で時々書いているのです
ブログに書くような出来事も無かったから・・サワリだけでもアップしてみますね 下書きですが・・
紅い雲
一章
1970年3月14日、吹田市の千里丘稜で大阪万国博覧会始まった。日本は東京オリンピックも無事終えて高度経済成長著しくアメリカに次ぐ経済大国となっていた。
その成長の象徴である万博開催地として大阪では大規模的な開発が進められ地下鉄の路線も増やされ高景気に浮かれていた。
開催前から特に話題となったのていたのはアメリカ館で展示されるアポロ11号が月から持ち帰った石だった。
開催当日の夜、浩二を駅に送って戻ってきた娘に母親の紗枝が「今日の浩二さんなんか違ったね、あんなにお酒を呑んでもよえへんし・・」
そう言われて多恵は何故か背中に冷たいものを感じた。
多恵(21歳、短大卒、高槻住)と浩二は年明け早々、父の知り合いの紹介で見合いをして来月には結婚することになっている。
父も仕事上で以前から浩二を知っていて気に入っていたので話はトントン拍子に進んだ。
多恵は21歳、短大を出てから花嫁修業に料理やお花を習って一年になる。 少し色が黒いと言えない事もないが小さな顔にぱっちりした目と少し厚めの唇が小悪魔的ですれ違った人の何割かが振り向くほどだった。
見合いからまだ二ヶ月半しか経っていないが一目見た時気に入っていた。言葉にするのは難しいけど信じられる気もした。
自分の夫として認めることが出来ると思った。 結婚するつもりだったので二度目に会った時に多恵は浩二に体を許していた。
自然な成り行きだったし多恵自身興味もあったから逆らう気持ちは殆どなかった。もしかすると多恵のほうがその気にさせたのかもしれないと今となっておもっていた。
ただ気持ちと異なり少しだけ両腕が抵抗したと思っている。
初めての体験は特に痛みも快感もなくオシッコを漏らしそうで息をするのがやっとだった。
学生の頃仲が良かった友達二人から聞いていた経験談とは全く違っていた。
行為が終ってから少し涙がでたがこれは天井を見すぎたせいかもしれない。 心のどこかで何か覚悟のようなものが出来たと思えなくも無かった。
会ったのは今日で6回目だった。二度目にそんなことになったので会うたびにそうなると半ば期待もあったが時間の都合や打ち合わせで
今日の午後が二度目だった。
快感ではなかったが、どこかに快感に変わっていきそうな息苦しいような胸を締め付けられるようで水が飲みたいような咽喉の渇きがあった。
浩二は東京に住んで虎ノ門の大手建設会社に勤めていた。この三月末で会社を辞め大阪の多恵の家に来る。入り婿だった。
仕事は父が起こした「安藤建設」(天王寺)で営業部員としてスタートすることになる。
突然の事故でまだ44歳の父が逝って半年、今は母(45歳)の弟になる伯父さん(42歳)が副社長から社長に昇格している。他に三人の取締役がいた。
母は安藤建設が始まった時から専務取締役として10年余りの期間経理を担当していたがその後は多恵を育て主婦業に専念していたのだが父の急死で会社に出なければならなくなっていた。
多恵自信情が薄いとは思っていなかったが、この頃は父が亡くなったショックから完全に立ち直っていた。
これは母も同じで余りに全てが忙しくなって最初の事故の報告を受けた時をピークに日々回復しているように見える。
安藤建設は1948年、23歳の父がツルハシとスコップだけで始めた会社だった。 上場していない親族会社だが父や伯父の真面目な性格は官公庁でも人気が高く、民間企業からの受注も順調で業績は伸びていた。
毎年の様に色々な省庁からの退職者も受け入れていた。父の営業は主にそれらの省庁周りだったが毎日現場にも顔を出していたらしい。
今期の売り上げは念願だった20億円を超えることがほぼ間違いない。大阪の業界では中の下といったクラスだが財務内容は極めて良く堅実経営で知られていた。
とは言っても短期借り入れが便宜上発生することはあるからずっと以前から会社の敷地、建物や多恵が住んでいる家も「根抵当」に入ったままになっている。
現在、株式の70パーセントは創始者である父と母の名義だった。会社を始めて五年くらい後から手伝い始めた現社長の伯父夫婦も20パーセントを持っている。残りの10パーセントは取り引き銀行4社が保有していた。
創設時当時は祖父や祖父母、父の兄達も登録上の株主だったそうだが亡くなった時に買い取る形で父の名前にしたと聞いている。
父が逝ってしまった今、父名義の株式の名義を期末までに変えなければならなかった。現在の株主資本金一億円のうち父名義が50%で5千万円分ある。
これは出資金としての額で実際に株式市場に上場すれば二十倍以上の評価はあるそうだ。
だが資金面の余裕があるので上場の必要はなかった。上場すると知名度が上がり、資金を公募などで簡単に調達出来る特典がある反面
決算報告や監査、株主総会などの基準が厳しくなり時間と費用がかかる。
大口資金が必要になるまで上場はしない方針だった。
当面の問題は株式の名義を変えることにある。名義を変えると相続になり相続税も払わなければならない。
同族会社でもこの規模になると出資額面通りの評価でなく現在の資産なども評価対象になるので上場企業ほどではないものの莫大な相続税を払うことになる。
会社の将来や相続の事を考えて一人娘で唯一の継承者である多恵の結婚は急ぐ必要があった。
まあこんな感じなんですが・・・「続きが読んでみたい」と思います?
太陽は全く出ず厚い雪雲が威圧するように覆いかぶさって僕は縮んでいます
そんな具合で殆ど外に出る勇気もでず「サスペンス小説」でもと思い書き始めました
出ることも無いと言うより多分何処の出版社も相手にしてくれないだろうけど・・趣味で時々書いているのです
ブログに書くような出来事も無かったから・・サワリだけでもアップしてみますね 下書きですが・・
紅い雲
一章
1970年3月14日、吹田市の千里丘稜で大阪万国博覧会始まった。日本は東京オリンピックも無事終えて高度経済成長著しくアメリカに次ぐ経済大国となっていた。
その成長の象徴である万博開催地として大阪では大規模的な開発が進められ地下鉄の路線も増やされ高景気に浮かれていた。
開催前から特に話題となったのていたのはアメリカ館で展示されるアポロ11号が月から持ち帰った石だった。
開催当日の夜、浩二を駅に送って戻ってきた娘に母親の紗枝が「今日の浩二さんなんか違ったね、あんなにお酒を呑んでもよえへんし・・」
そう言われて多恵は何故か背中に冷たいものを感じた。
多恵(21歳、短大卒、高槻住)と浩二は年明け早々、父の知り合いの紹介で見合いをして来月には結婚することになっている。
父も仕事上で以前から浩二を知っていて気に入っていたので話はトントン拍子に進んだ。
多恵は21歳、短大を出てから花嫁修業に料理やお花を習って一年になる。 少し色が黒いと言えない事もないが小さな顔にぱっちりした目と少し厚めの唇が小悪魔的ですれ違った人の何割かが振り向くほどだった。
見合いからまだ二ヶ月半しか経っていないが一目見た時気に入っていた。言葉にするのは難しいけど信じられる気もした。
自分の夫として認めることが出来ると思った。 結婚するつもりだったので二度目に会った時に多恵は浩二に体を許していた。
自然な成り行きだったし多恵自身興味もあったから逆らう気持ちは殆どなかった。もしかすると多恵のほうがその気にさせたのかもしれないと今となっておもっていた。
ただ気持ちと異なり少しだけ両腕が抵抗したと思っている。
初めての体験は特に痛みも快感もなくオシッコを漏らしそうで息をするのがやっとだった。
学生の頃仲が良かった友達二人から聞いていた経験談とは全く違っていた。
行為が終ってから少し涙がでたがこれは天井を見すぎたせいかもしれない。 心のどこかで何か覚悟のようなものが出来たと思えなくも無かった。
会ったのは今日で6回目だった。二度目にそんなことになったので会うたびにそうなると半ば期待もあったが時間の都合や打ち合わせで
今日の午後が二度目だった。
快感ではなかったが、どこかに快感に変わっていきそうな息苦しいような胸を締め付けられるようで水が飲みたいような咽喉の渇きがあった。
浩二は東京に住んで虎ノ門の大手建設会社に勤めていた。この三月末で会社を辞め大阪の多恵の家に来る。入り婿だった。
仕事は父が起こした「安藤建設」(天王寺)で営業部員としてスタートすることになる。
突然の事故でまだ44歳の父が逝って半年、今は母(45歳)の弟になる伯父さん(42歳)が副社長から社長に昇格している。他に三人の取締役がいた。
母は安藤建設が始まった時から専務取締役として10年余りの期間経理を担当していたがその後は多恵を育て主婦業に専念していたのだが父の急死で会社に出なければならなくなっていた。
多恵自信情が薄いとは思っていなかったが、この頃は父が亡くなったショックから完全に立ち直っていた。
これは母も同じで余りに全てが忙しくなって最初の事故の報告を受けた時をピークに日々回復しているように見える。
安藤建設は1948年、23歳の父がツルハシとスコップだけで始めた会社だった。 上場していない親族会社だが父や伯父の真面目な性格は官公庁でも人気が高く、民間企業からの受注も順調で業績は伸びていた。
毎年の様に色々な省庁からの退職者も受け入れていた。父の営業は主にそれらの省庁周りだったが毎日現場にも顔を出していたらしい。
今期の売り上げは念願だった20億円を超えることがほぼ間違いない。大阪の業界では中の下といったクラスだが財務内容は極めて良く堅実経営で知られていた。
とは言っても短期借り入れが便宜上発生することはあるからずっと以前から会社の敷地、建物や多恵が住んでいる家も「根抵当」に入ったままになっている。
現在、株式の70パーセントは創始者である父と母の名義だった。会社を始めて五年くらい後から手伝い始めた現社長の伯父夫婦も20パーセントを持っている。残りの10パーセントは取り引き銀行4社が保有していた。
創設時当時は祖父や祖父母、父の兄達も登録上の株主だったそうだが亡くなった時に買い取る形で父の名前にしたと聞いている。
父が逝ってしまった今、父名義の株式の名義を期末までに変えなければならなかった。現在の株主資本金一億円のうち父名義が50%で5千万円分ある。
これは出資金としての額で実際に株式市場に上場すれば二十倍以上の評価はあるそうだ。
だが資金面の余裕があるので上場の必要はなかった。上場すると知名度が上がり、資金を公募などで簡単に調達出来る特典がある反面
決算報告や監査、株主総会などの基準が厳しくなり時間と費用がかかる。
大口資金が必要になるまで上場はしない方針だった。
当面の問題は株式の名義を変えることにある。名義を変えると相続になり相続税も払わなければならない。
同族会社でもこの規模になると出資額面通りの評価でなく現在の資産なども評価対象になるので上場企業ほどではないものの莫大な相続税を払うことになる。
会社の将来や相続の事を考えて一人娘で唯一の継承者である多恵の結婚は急ぐ必要があった。
まあこんな感じなんですが・・・「続きが読んでみたい」と思います?