事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

竹野内豊に夢中~瑠璃の島Ⅱ

2008-10-26 | 芸能ネタ

Rurinoshima02 PART1はこちら

……里親を困らせるために瑠璃は盲腸を装い、救急ヘリを呼ぶまでの騒ぎになる。上空で露悪的に仮病であることを明かす瑠璃に、怒るかと思えた勇造の妻(倍賞美津子)は瑠璃を抱き寄せる。

「よかった」

と。問題はここからだ。もうワンステップ、このドラマは瑠璃にこんなセリフを言わせるのである。

「どんなに小さなことだって、小さい島だと大ごとになるとでも言いたいんでしょ!?」

うまい。大人の欺瞞に常に傷つけられてきた存在であることをここで再認識させ、そして工事現場のシーンにつなげるのだ。泣かせるよなぁ。もうひとつの彼女の名セリフは

あたしは、本当にさみしいってどんなことか知ってる。」

効きますわこりゃ。

 鳩海島の現状は日本の縮図になっている。少子化が極限まですすむとその土地から学校が消え失せ、コミュニティ自体が立ちゆかなくなるのだ。だが、里子をとるという禁じ手(国家レベルでいえば移民受け入れか)まで使い、地域エゴを優先させることが許されるのか……実話だという原作もふくめて、作り手はその迷いから目を背けていない。南の島の美しさでつい忘れそうになるが、これは全国どこででもありうる話なのだし。

ドラマのサイドストーリーに見えて、実はドラマ自体をひっぱっているのは竹野内豊がなぜ鳩海島に来たかの謎だ。自分の過去を語ろうとして緒形拳にさえぎられる、そのわずか一回だけ竹野内は涙を見せる。さえぎる言葉は「瑠璃の前から、だまっていなくなるようなことはしないと約束してほしい」だった。

基本となっているのは緒形拳と成海璃子の情愛だが、竹野内豊と璃子のラブストーリーがもうひとつの核になっていることがここで理解できる。実は美容師だった竹野内が砂浜で瑠璃の髪をカットしてあげるシーンはため息がでるほど美しい。

だから瑠璃の恋愛対象が神木隆之介に変更されてしまったスペシャル「初恋」はいまひとつ冴えない出来になっている。竹野内豊の不在は痛かった。

それどころか緒形拳の死によって、もう「瑠璃の島」の続篇がつくられる可能性はまったく無くなってしまったのだ。でも、緒形拳の柩に竹野内が寄り添っているニュース映像をみたり、きっとお別れの会には成海璃子も出席するであろうことを考えるとそれだけで泣けてくる。続篇は、わたしたち視聴者が心のなかでつくりあげることができるわけだ。まぶたが腫れることを覚悟で、ぜひお試しを(といっても仲間うちで観てなかったのはわたしだけだったけど)。

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竹野内豊に夢中~瑠璃の島Ⅰ

2008-10-26 | 芸能ネタ

Rurinoshima01 「人間の証明」篇はこちら

住民が50名にみたない八重山諸島の鳩海島(はとみじま)の島民たちは追いつめられていた。中学校はすでに閉校。ただひとりの小学生も島を離れることになったからだ。勇造(緒形拳)は東京にいる孫を連れ戻そうとするが娘に拒否される。そこへ現れたのが瑠璃という、母親のネグレクトによって心に傷を負い、養護施設に入っている少女・瑠璃(成海璃子)だった。勇造は、大人に対して決して心を開こうとしない彼女を里子にすることで小学校の存続を図る。瑠璃とふたりで鳩海島に渡る船には、川島という謎の男(竹野内豊)が乗っていた……

わたしは映画やテレビを観てよく泣く。だから泣きそうな作品はなるべく敬して遠ざけるようにしているのだ。重松清の著作や、山本周五郎の「ながい坂」を読まないのはそのため。でも泣きそうな話ならなんでも泣くわけじゃない。そこにあざとさがあったり、ドラマとして不出来だったりすると、へそを曲げて思いきり罵倒したりしている。思えばいやな客。

そんなわたしが「瑠璃の島」(日本テレビ)にはやられた。いっきにDVD5枚(全10回+スペシャル)を観た週末は、目がずーっと真っ赤。泣きすぎるとまぶたが腫れるってのはホントですな。いきなり部屋に入ってきた娘は、なにごとが起こったのかと目を白黒させていた。コブクロをロケ現場まで連れて行って主題曲を書かせたことでわかるように、日テレの本気ぶりが伝わる傑作だ。

ストーリーはベタなかぎり。たとえば、こんな場面がある。
島を脱走するためにボートに勝手に乗りこんだ瑠璃は、そのボートを損傷させてしまう(彼女の命を助けたのが竹野内だったというお約束の展開あり)。修理代を稼ぐために勇造は石垣島の工事現場に通う。反抗的な態度をとり続ける瑠璃だったが、「老いぼれ!」と罵倒されながら働く勇造にかけより「バカじゃないの!」と泣きながら抱きつく……

ベタでしょう?でも緒形拳の背中がすっかり小さくなっていたり、瑠璃役の成海璃子(この子は天才だ)の演技がうまいのでひたすら泣かされてしまう。

くわえてこのドラマが周到なのは、そんなベタな場面の前にクールなやりとりをちゃんと仕込んであるところだ。それは……あ、全然竹野内豊の話になっていないのに次号につづく

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「霧の旗」がわからない PART4

2008-10-26 | 映画

Tsuyuguchi01  PART3はこちら

 滝沢修は、愛人である新珠三千代との会話か ら、事件の犯人が左利きであることを確信する。しかし今さらどうなるものではない、と苦い思いで事件を忘れ去ろうとしていた。ここで、もうひとつの殺人事件が起こり、新珠三千代が容疑者として逮捕される。彼女を救い出すには、倍賞の目撃証言と、証拠である犯人のライターが必要なのだが……

 重要なのはこの部分。倍賞に(彼女が隠した)ライターを渡してくれ、と哀願する滝沢は、「きみのお兄さんは左利きなのか?」と(ついに)訊ねる。

 その問いに、倍賞は答えないのだ

 リメイク版にしてもテレビ版も、「霧の旗」は“兄の冤罪を晴らせなかった妹が、弁護士に復讐を果たす”物語、ということになっている。でも、実際に観てみたら(犯人に該当するような怪しげな人物も出てくるが)少なくとも山田洋次版では「兄が殺人犯ではない」と決定づけるシーンは存在しないのである。これはびっくり。もちろん「殺人犯ではない」とした方が観客は納得しやすい。その場合は倍賞千恵子が、社会の不条理に押しつぶされそうになりながら、それをはね返す健気な女性ということになる。

 しかし兄が犯人だったと仮定するとどうだろう。
「お兄さんは左利きなのか」という問いかけは、「左利きでなければ犯人ではない」と観客は類推できる。しかし彼が左利き=犯人であれば、不可解だった兄の行動が理解できる。そしてたとえ兄が犯人ではないかと思っても、倍賞は復讐をやめないのである。しかもその復讐は、【女性が一回だけ使える方法】で完遂し、滝沢は社会的に葬られる。

 つまり「霧の旗」は、兄が殺人を犯していようがいまいが、自分の行動を制御することができない、あるいは制御する必要をみとめない女性を主人公にした作品ということになろう。そしてわたしはこう思った。むしろ兄が犯人であったとした方が「霧の旗」の歴史的意義は大きい。まったく新しい女性像をクリエイトできたわけだから。

 少なくともわたしは、脚本:橋本(「砂の器」)忍、監督:山田(「男はつらいよ」)洋次という超一流のスタッフが、観客に「どちらでもお好きに解釈して」と謎をかけた問題作に思えた。一見の価値あり。ぜひ(上映時間の関係でカットされたって落ちはないだろうなあ)。

なんと「氷の微笑」篇につづきます。

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