主演が福山雅治と柴咲コウ。おなじみガリレオのフォーマットの上に堤真一と松雪泰子が客演、という形になっている。
天才物理学者である湯川(福山)と数学の天才である石神(堤)の頭脳合戦。しかしこの映画は、容疑者Xである石神の、松雪母子にささげる献身ぶりの方に焦点を合わせている。これは必然かも。福山ファン以外にもリピーターが続々あらわれている要因は、あの“感動”にあるんでしょうから。
その意味で、大ヒットにもっとも貢献したのは脚本の福田靖だ。ラストの堤真一の大芝居に向けて、「HERO」や「犯人に告ぐ」のようにあいかわらず周到にプロットが練りあげられている。ホームレスの群れのなかを無表情に歩く石神と湯川(「興味深い通勤コースだ」)に
「人間は時計をはずすとかえって規則正しくなる」
と会話をさせ、同時にひとりのホームレスの不在を観客に意識させるタイミングなど、演出の西谷(「県庁の星」)弘も快調。おまけにその会話は後半もう一度くり返され、違う意味が付与される。
でも、ちょっと不満もある。
「なんか、ガリレオじゃないみたいだった」
いっしょに観た息子が語るのももっともで 、感動を追及するあまり“事件を解決するのは頭のいい男であれば誰でもよく、物理学者でなくてもよかった”のは残念。
ここからはネタバレなので未見の人は読まないこと。
「容疑者Xの献身」の最大のトリックは、石神がヒントのように語る「幾何の問題のように見えて実は関数の問題」→「アリバイトリックのように見えて実は……」にある。なぜこのトリックが有効かといえば
①容疑者たちの誰も(石神もふくめて)嘘をつかなくていい
②石神自身も罪を犯すことで、真相をばらす誘惑から逃れうる
③観客自身もアリバイくずしが好きなものだから完璧にミスリードされる
しかし(自首による完遂までふくめて)あまりに見事なトリックだし、松雪の元亭主役の長塚圭史(常磐貴子の恋人です)が憎々しいこともあって「なぜ真実が暴かれなければならないか」がぼやけてしまった。
もちろん罪もない人間を“利用”したことで断罪はされなければならないのだが、ガリレオと柴咲コウが真実を告げたのは、やはり余計なことだったのではないかと釈然としないのだ。数式を解くように“理にかなう”ことが多い福田靖脚本にしてはめずらしい。それとも、愛されることの少なかった数学者にとって、松雪の最後の行動は想定外だったということを強調したかったのだろうか?