お寺のオバサンのひとりごと

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自力と他力

2007年07月03日 | 仏教
 親鸞聖人の言われる「自力」とは
 
 「他人に頼らない。人任せにしない。自分の力」のこと では なく ×、
 「自分に執着した心。自分で行動や心を整え、自分で善をなしうる と思い上がった 肩に力の入った こころ」 を言います。

 「他力」とは、
 「人任せ、努力放棄。人の力をあてにする」こと では なく ×、
 自分で行動、心を整えたくとも、自分の自己中心の思いが混じる。そういう自分の不完全さの自覚。自己執着心の自覚をうながす「仏の力」を言います。

  山崎龍明先生の「親鸞聖人に人の生き方を学ぶ」 中経出版  が おすすめです。 

  副題は、「他力」と「浄土の思想」がよくわかる本 と なっています。

 山崎先生は、亀井鑛氏の「親鸞三つの顔」(柏樹社)から引用して、 p57 
 
 「自分の独善、自分最高の心をすて、自分万能の思い上がりに気づく、したり顔に自分で自分を裁かない、自分不在のまま他を裁く心をすてる」
 
 そして、これらの心そのものが、親鸞のいう「罪悪」なのです。(略)

 主観の固執とは、わが知識、わが経験、わが判断、わが立場、わが好き嫌い、わが損得をにぎって、離さないこと、これが罪悪の内容です。

 そうなんです。私は、私の経験、考え、価値観でしか生きられないんです。それで、いい面も、もちろんあるでしょうし、それが、全てダメだ と 言っているのではありません。
 でも、その我執のせいで、人を傷つけたり、自分が、がんじがらめになって苦しむのです。

 その主観固執の危うさ、その 心の罪を認識させられるのが、「他力・仏のこころ」なんです。
 そして、気づかされると、がんじがらめの心が、少~し軽くなるのです。
 

 p61
 一般に「自力」はよくわかりますが「他力」はわからない、といわれることがあります。
 また、「他力本願」では生きていけない、やはり自力本願でなければ、といわれることもあります。「自力」(自己)は「本願」(仏)とはまったく相対する世界であり、対立する概念です。「本願」とは、人間を救済する仏の誓いです。「他力」そのものです。したがて「自力本願」という語は本来存在しない、矛盾する語です。

 あとがき には、こう書かれています。
 
 私は、自力の世界とは、ものを握りしめる世界。他力の世界とは、握ったものを手放す世界だと考えています。(略)
 自力とは自己閉鎖。他力とは自己解放の世界です。
コメント (3)
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