お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

私は・・・

2007年07月04日 | 仏教
 きょうは、森田真円先生 著 「ひらがな正信偈」 本願寺出版 から ご紹介です。
 
 森田先生は、真宗の教えを熱心に聞いておられる方から、こんな質問をされたそうです。
 
 p74
「私は仏法を聞いているが、友人は酒ばかり飲んで遊び回っていて 寺参りなんかしたこともない。阿弥陀さまはすべての人を平等に救うといわれるが、友人も私と同じように救われるというのは、不平等なような気がするんですが・・・」

 質問された方は、大変、生真面目な方なのでしょう。そして、ご自分の正直なお気持ちで、質問されたのだと思います。

 この生真面目な方に、失礼な物言いかもしれませんが・・・同病相哀れむ・・・
 
 悲しいかな、凡夫って、そうなんですよね。 ご法話聞いても、「私が・・・」「私が・・・」の自己執着は、消えるもんじゃありません。

「私は、真面目なのに、あの人は・・・」と、自分を正当化して、人を裁く心がムクムク湧き起こるんです。

 この方ばかりではありません。私も含め、大抵みんな、そうなんです。

 法座に参詣しても、ご法義を歓ぶどころか、「きょうのご講師のお話は眠たかった」「ヘタだった」と講師の批判に始まり・・・
 
 自分が気に入る話だった時は、「きょうのお話は、よかった。嫁(あるいは、自分の気に入らない人の名前がここに入る)に、聞かせてやりたい話だった」 
 
 と、純粋に自分の感動・仏法の有り難さを 人にも伝えたい・・・という思いでは、なさそうな・・・発言 があったり・・・

 仏法を「他人事」でなく、素直に「自分のこと」「自分のこころの問題」と、聞かせてもらうのは、なかなか難しいことです。

 森田先生は、こう書かれています。

 「俺はこんなにしんどい思いをして、寺参りしているのに、あいつは気楽なもんだ」と、他人を見下すことにまでなれば、何のための聴聞なのかわかりません。

 邪見憍慢悪衆生・・・私のおごり、高ぶりの心は、なかなか根深く、手ごわいです。自分で気をつけているつもりでも、ひょっこり出現 
 
 そんな私(凡夫)を見抜いて、先手の阿弥陀如来の本願(私を悟らせたいという仏さまの願い)です。

 こりゃあ、おまかせするしか、私は救いようがありません。 南無阿弥陀仏 
コメント (3)
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