お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

幽霊

2007年07月23日 | 仏教
 養老猛司 氏の「I know you 脳」 かまくら春秋社  を読んでいたら、「幽霊」について、こう書いてありました。

 p16 「死人に死体がないと幽霊になる。この幽霊というのが、なかなか面白い発明である。人が死ぬと、体が残って、はたらきが消える。そこがどうしても納得が行かない。そういう人が多いらしい。そこで、はたらきだけを、死体とは別になんとか残そうとする。それが幽霊になる」

 お釈迦様の教え(仏教)において、「私」というこの身体・意識は、いろいろな縁によって、仮に成り立ったもので、一刻一刻変化し、「私」という「我」は「常」なるものではない。
 従って、生前の「我」という意識が、死後に、「霊」として残るとは、考えられない。(これは、真理です)

 というわけで、「幽霊」の存在は、ありえませんが・・・

 この世のことは、全て、各々の人が、各々認知する世界(私が見る世界)ですから、「私は霊感が強くて、霊が見える」と仰る方にとっては、「霊」が現存するのでしょう。
 
 以前、最愛の奥様を亡くされたご主人が、

「妻が台所にいた」「妻が居間を歩いていた」

と、映画「シックス・センス」のワンシーンのようなことを真顔で話され・・・
私は否定も肯定もせず、「そうですか・・・きっと、ご主人のことを心配されておられるのでしょう」と、うなずいて聞きました。

 再び養老猛司氏の上記著書p18 

 幽霊に示されるのは、われわれの身体の機能すなわち「はたらき」である。はたらきには、前にも述べたように、本来は形がない。それに無理に形を与えた物が幽霊である。そう考えれば、幽霊の発生の必然がわかる。死んだ人を目で見れば、「死体」だが、「耳を澄ませて聞けば」それは幽霊なのである。

 死者の生前の「我」は残らないが、死者の生前の言動や「思い」は、確かに残る。
 この世に生前の感情のまま「幽霊」として残るのではなく、広大な智慧と慈悲に目覚めた「仏」に転じられて、後の者を真理に導く「はたらき」になる。

 養老氏の言われる「耳を澄ませて聞けば」それは幽霊 を 転じて 

 「幽霊」ではなく、「仏となられた故人の願い・はたらき」を「耳を澄ませて聞く」「心をあわせる」

 それが、私の味わい方であります。

 
 ところで、オバサン、物語としては、幽霊物好きですよ
 血が飛ぶホラー物は大嫌いですが、残酷シーンなしに、ただゾ~っとするの、大好きです。

 一人深夜、シャンプー、シャワーを浴びていて、背中に人の気配を感じるとか、・・・

 むむむ・・・でも、若い女性なら絵になっても、オバサンの風呂場に立つ、物好きな幽霊はいないだろう・・・
コメント
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