三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「響 -HIBIKI-」

2018年09月16日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「響 -HIBIKI-」を観た。
 http://www.hibiki-the-movie.jp/index.html

 観ている間は面白かった。しかし観終わったらなんとなく重い気分になってしまった。

 大学時代に応援団長をしていたという中小企業の社長がいて、その男が応援団時代に先輩から「場を乱すな」と教わったと得意げに言っていたのを聞かされたことがある。非常に不愉快であった。KY(空気読めない)という言葉が一般に広まったとき、同じ不快感を感じた。
 日本社会の支配層にはこの元応援団長みたいな人間がうようよいる。最近次々にパワハラで訴えられているスポーツ界の老害たちも多分そうだ。そういう連中の、全体のために個々の意見を封殺するという考え方は、民主主義と真っ向から対立する、文字通りの全体主義である。
 テレビで漫才コンビのダウンタウンが「空気読め」と怒鳴るのを聞いて、非常に苦々しく感じていた。何故空気なんか読まないといけないのかわからないのだ。同じように不快に思っていた人も結構いると思う。
 ところが、だんだんKYという言葉が浸透してくると、一般人の間にも空気を読まないのはよくないことだ、みたいな考えが広まり、言論の自由を自分たちから放棄する世の中になってきてしまった。若者にアベシンゾウ支持が多いのも、そのあたりかもしれない。一億総体育会系と言ってもいい。
 全体主義の共同体では、全体のためにと言いつつ、結局は支配的な立場の人間の個人的な意見ばかりがまかり通ることになる。スポーツ界のパワハラの構造と同じだ。それは結局、ナチスと同じ独裁主義である。
 人間には無意識に安全無事を願うところがある。「君子危うきに近寄らず」とか「李下に冠を正さず」とかいった、保身が目的の諺を大事にしているのはその現れだ。
 本作品はそういったKYとは対極にある自由な女子高生が主人公である。誰もが安全無事を願い、穏便に済ませようとするような場面でも、主人公は言葉を飾らず、敬語を使わず、本音だけで勝負する。攻撃的な言葉に対しては、時に実際の暴力で対処する。
 痛快さはたしかにある。しかし危うさもある。その危うさとは、自分の意見で相手の人格や人権を蹂躙することに反省がないところだ。暴力は常に相手の人権の蹂躙である。言葉の暴力という言い方がある。確かに人を傷つける言葉はある。しかし、それに対して暴力で反撃するのは戦争主義者である。言葉は常に多義的であり、他人の本心をすべて理解することはできない。そもそも自分の本心さえなかなか理解できないのだ。にもかかわらず自分の理解だけ、自分の価値観だけで相手に暴力を振るうのは、いかにも理不尽である。
 社会で生きていくには他人と折り合いをつけなければならない。そのために何が必要かというと、寛容であり、想像力である。この映画の主人公みたいに不寛容な人間は、KYと言われて排除されるかもしれないが、場合によっては共同体の中で力を持つようになるかもしれない。自分の価値観で他人を断罪する人間が、権力を持ち、そして暴力に裏打ちされれば、近頃摘発されているスポーツ界のパワハラ指導者たちと同じことになる。
 本作品は、そういった痛快さと危うさを併せ持つ主人公が、闇の中で高いところに張られたワイヤーを目隠しして綱渡りするような、そういう映画である。主人公に感情移入はできないが、北川景子の花井ふみや小栗旬の役には感情移入する。つまりこの映画はトリックスターを主人公にした、価値観を次々に相対化させていく作品なのである。そういうふうに理解すれば、観ている間は面白かったのに観終わったら重い気分になったことの合点がいく。


芝居「マンザナ、わが町」

2018年09月16日 | 映画・舞台・コンサート

 紀伊國屋ホールでの芝居「マンザナ、わが町」を観てきた。
 http://www.komatsuza.co.jp/program/index.html

 1942年3月のアメリカ砂漠地帯にあるマンザナ強制収容所を舞台に、所長から「マンザナ、わが町」という芝居を上演するように命じられた5人の日系人女性が、芝居の練習を中心に、歌ったり話したりしながら、互いの人間関係を深め、その中で自分たちの置かれた立場や状況を分析し、民主主義とは何かを悲壮の覚悟で追究していく会話劇である。
 色々な色はそれぞれにすべて美しいように、人もそれぞれだ。しかし「お国のため」という一言で、人は色を失い、同時に自由も人権も失ってしまう。だから井上ひさしは「お国のため」というパラダイムを断固として拒み続ける意思を示す。この時代にこそ上演しなければならない重要なテーマである。
 コミカルとシリアスが瞬時に転換するという難易度の高い演出だが、達者な役者陣が見事に、胸のすくタイミングでそれに応える。観客のほうも笑ったり泣いたり大忙しである。
 台詞の言い回し、間のタイミング、掛け合いのリズムなど、否応なしに観客の気持ちを盛り上げる、鵜山仁の天才的な演出である。芝居の力、演出の力をまざまざと感じさせてくれた素晴らしい舞台であった。芝居でこれほど感動したのは初めてである。近くに座っていた有名人は、終演後はずっとスタンディングオベーションをしていた。
 出演者では熊谷真実のべらんめえ調の浪曲師はもちろんよかったが、土居裕子の歌のうまさには舌を巻いた。今年で60歳になるというのに、声にはとても張りがある。その歌声は思春期の娘のようでもあり、子供を抱いた母のようでもあり、声楽隊のようでもある。
 伊勢佳世は「父と暮らせば」という芝居を6月に六本木の俳優座劇場で観て、その演技力と存在感に感心したが、その時の演出も鵜山仁だった。演出家との相性がいいのだろう。今回の芝居ではさらに、わざとカタコトの日本語を話す中国系の女性という難しい役柄でたくさん笑いを取っていた。