三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

コンサート「わが麗しき歌物語 Vol.2 〜岩谷時子とクミコの歌たち〜」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 六本木のEXTHEATERのクミコのコンサート「わが麗しき歌物語 Vol.2 〜岩谷時子とクミコの歌たち〜」に行ってきた。
 今回も覚和歌子さん作詞Barbara作曲の「わが麗しき恋物語」を披露してくれたが、いつもの調子ではなかった。聞くたびに泣ける歌だったのに、今回は泣けなかったからだ。クミコの喉が衰えるとは思わないので、風邪を引いたのかもしれない。
 しかし舞台に覚和歌子さんがゲストで登場するなど、いつも通りの舞台になった。覚和歌子さんは、他にも木村弓が歌った「いつも何度でも」の作詞家としても有名だ。主題歌に採用された映画「千と千尋の神隠し」は大ヒットした。
 相変わらず観客の殆どは年配女性である。日本のシャンソンは越路吹雪や岸洋子以来の根強いファンが支えているのだろうが、ファンも歳を取る。若い人にも訴えるシャンソンのあり方が模索される時代であるが、一方でエディット・ピアフやダミアは根強い人気がある。クラシック音楽並みの人気だと考えていい。
 クラシックが好きな若い人が多いように、シャンソン好きな若い人がたくさんいるであろうことを願う。シャンソンのには人生があると思う。


映画「COLD WAR あの歌、2つの心」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「COLD WAR あの歌、2つの心」を観た。
 https://coldwar-movie.jp/

 恋愛はいつの世も相手に対する性欲と相手を受け入れる寛容さと相手に受け入れられる充足感の相乗効果だが、それをストレートに表現するのは意外に難しい。エディット・ピアフのシャンソン「Hymne a l’amour」は恋愛の究極の形を表現した歌である。二人でいられるなら地球もいらない、自分の命さえいらないという鮮烈な歌詞だ。そして本作品のズーラとヴィクトルはまさにそれを地で行く。既存の価値観にとらわれない愛は、相手に嘘をつく必要がない。相手に男ができても女ができても結婚しても、そんなことは関係がない。世界の果てまで一緒にいるのだ。
 庶民ができない大胆で勇気のある生き方をする登場人物。まさに映画の醍醐味である。白黒の作品だから尚更そう感じるのかもしれないが、兎に角役者の演技が抜群に上手い。ズーラを演じたヨアンナ・クーリグは歌もうまいし、小柄で胸の大きな男好きのする体はこの作品にぴったりだ。対して長身痩躯のトマシュ・コットはクーリグの5歳上で実年齢的にもちょうどいいカップルである。このふたりはキスをしてもセックスをしても、ふたりでただ歩いているだけでも、何をしても絵になる。

 東西の冷戦はヨーロッパ、特に東側の諸国にとっては苛酷な生活を強いられる時代であったと思う。1980年にソ連からヨーロッパを旅行した人の話では、東側は貧しくてホテルの設備は酷いし、食べ物も全部不味かったそうだ。そして西ドイツに入ってビールを飲んでソーセージを食べたときには、はからずも資本主義バンザイと思ってしまったらしい。
 能力に応じて労働し、必要に応じて消費する共産主義の理念はいいが、権力者の腐敗によって再配分が機能していなかったのだ。1980年当時でもそうだったのだから、本作品の主人公たちが生きた1950年代は更に厳しかったと思われる。
 冷戦は経済的な格差の他に、文化的な格差も生んでいる。共産主義は日本の戦前の軍国主義と同じ全体主義のひとつで、国家の価値観によって国民の活動を束縛するものであるから、多様な価値観を許さない一元論になる。必然的に指導者の権威と権力が絶対的なものとされてしまい、あらゆる芸術は行く手を阻まれて花を咲かさない。勿論庶民の生活は限定され不自由になる。
 しかし主人公たちはそんなことを物ともせず、ただ愛だけを貫く。ふたりの愛が時間の経過にも少しも冷めないのは、どの別れも互いの意志ではなく、時代に引き裂かれた別れだったからだろう。引き離されるほど恋い焦がれるのだ。出会いと別れを繰り返すふたりはそのたびに愛が深くなっているように見えた。

 本作品で歌われる歌は、日本語の訳詞♫りんごの花綻び川面に霞立ち♫ではじまる「カチューシャ」以外は聞いたことがなかったが、どの歌もスラブ調の美しくも物悲しい歌だった。音楽家同士のラブストーリーに相応しく、当時の歌や演奏がそこかしこに鏤められていて、夢心地のような時間を過ごすことができた。珠玉の名作だと思う。


映画「X-MEN Dark phoenix」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「X-MEN Dark phoenix」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/darkphoenix/

 X−MENシリーズは何本か観た。特によかったのは2年前の「LOGAN ローガン」で、ヒュー・ジャックマンが自身のレーゾンデートルに悩みながら闘うX−MENを上手に演じていた。
 主人公ジーン・グレイは本作品で初めて見た。そのせいか、グループの中での立ち位置や性格、テレキネシスの能力がどれほどのものなのかなどが不明のままだったのでいまひとつピンと来なかった。この感覚は最後まで続いた。もしかしたら前作の「アポカリプス」を見ていればすんなり受け入れられたのかもしれないが、映画は一作ずつで完成しているべきだと思う。
 ハリウッドの商業主義の作品の中には続編ありきで製作されたと思しきものがある。逆に前作の鑑賞ありきで製作されるものもあるだろう。本作品はまさにそれではないだろうか。
 前後作と無関係に本作だけを見ても、いろいろな齟齬がある。まずジーン・グレイの性格に整合性がない。子供の頃に両親の死に対してさえ冷めていた女の子が再開した父親の部屋に自分の写真がないと激昂するだろうか。本作の悲劇の最大の原因が主人公の性格にあるはずなのに、その性格が一定しないのではご都合主義の誹りは免れないだろう。
 ニコラス・ホルトとジェニファー・ローレンスのロマンスには華がない上に、互いに対してアバタもエクボのおおらかさがない。I love you と何度言わせても二人の間に親密さを感じないし、そもそも I love you は恋愛関係でなくとも使う言葉だ。このあたりの演出がとても安易だと思う。
 総じて作品としての出来がよろしくない。群像劇の中でひとりにフィーチャーした物語を作るには、短時間でひとりひとりの個性を表現すると同時に互いの関係性も明らかにしなければならない。そうでないとプロットがぼやけるのだ。CGに莫大な金額を費やした映画にもかかわらず、なんだか大掛かりな学芸会の芝居を見せられた気分である。