三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「The old man & the gun」(邦題「さらば愛しきアウトロー」)

2019年07月13日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The old man & the gun」(邦題「さらば愛しきアウトロー」)を観た。
 https://longride.jp/saraba/

 ロバート・レッドフォードはポール・ニューマンと共演した「スティング」が最も印象に残っている。ちょっと軽めのプレイボーイというタイプのレッドフォードがポール・ニューマンと共に軽快なBGMに乗って華麗に悪党を騙す。「遠すぎた橋」ではスティーヴ・マックィーンの代役として出演し、わずか2週間の撮影の報酬が4億円と話題になった。金額が本当かどうかは定かではないが、それだけの価値があったと見做された俳優であることは間違いない。その後の俳優・監督としての活躍は誰もが知るところだ。
 歳を取ってからのレッドフォードは円熟味を増し、「オール・イズ・ロスト~最後の手紙」では、遭難したヨットマンがたったひとりの洋上で奮闘する様子を御年77歳で見事に演じてみせ、「ロング・トレイル」では79歳で往年の冒険家を演じて健脚ぶりを見せた。両方共観客を飽きさせない傑作であった。
 本作品のレッドフォードは銀行強盗である。上品な紳士と銀行強盗が両立するのはレッドフォードくらいなものだ。主人公は人生を楽しむために強盗をするのだと言う。これが年端もいかない小僧の言葉なら一笑に付されるだろうが、人生も終わりを迎えようとしている老人が更に人生を楽しもうとする姿勢には、呆れることを通り越して逆に感心する。
 成功してもよし、失敗するもまたよし。どちらに転んでもそこに自分の人生がある。主人公フォレスト・タッカーはそのように達観しているように見えた。そこには恐怖も不安もない。さぞかし人生は楽しいだろう。
 冴えない地元の刑事の存在が物語の幅を広げている。この役者がまた上手い。タッカーを調べれば調べるほど、捕まえたいような、捕まってほしくないような、とても刑事とは思えないような、微妙な心情が伝わってくる。どんな時代にも人を惹きつける自由な人というのはいるものだ。
 強盗の話なのになんだかほのぼのとして幸福な気持ちになる作品である。軽いタッチで演技しているレッドフォードだが、自由な魂は相当の覚悟と行動力によって支えられていることがそこはかとなく伝わってくる。観終わると、明日から自分も既存の価値観から解放されて自由になれるような気になる。そうだ自分も自由になっていいんだと、そう思わせてくれる作品である。


映画「A casa tutti bene」(邦題「家族にサルーテ! イスキア島は大騒動」)

2019年07月12日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「A casa tutti bene」(邦題「家族にサルーテ! イスキア島は大騒動」)を観た。
 http://salute-movie.com/

 配偶者の浮気に対する登場人物たちの反応は、フランス映画とイタリア映画では随分異なるようだ。少なくともこれまでに観た映画ではそうだった。
 フランス映画では夫に浮気された妻や妻に浮気された夫が激高するシーンを見たことがない。百年の恋も冷めるときは冷める。夫も妻もお互い様なのだ。価値観は相対的で、他人が自分と違う価値観を持つことを当然のこととして認めている。金持ちであることや若いことが必ずしも自慢できることではない。若い人は歳を取るし、金持ちは没落する。
 イタリア映画はというと、所有欲、独占欲、名誉欲、それに性欲と食欲と虚栄心など、あらゆる欲望が満開状態で物語が進む。当然ながら自分の浮気は許せても配偶者の浮気は許せない。だから浮気の発覚は修羅場になる。

 本作品はイスキア島の教会に家族が集まってくるシーンからはじまる。イタリア人は無宗教のフランス人と違って敬虔なカトリック信徒が多いのだ。カトリックは不倫も離婚も認めない。それがイタリアのパラダイムとなっている。
 一方で人間も種の保存の本能の例外ではない。男はより多く種付けをしたがるし、女は生存能力の高い優秀な遺伝子を望む。カトリックの教義とは正反対である。
 フランスではアルベール・カミュの「L'Etranger」(邦題「異邦人」)という小説で、家族愛の崩壊が予言されたが、イタリアはアメリカと同じく依然として家族愛の国である。

 登場人物たちはカトリックの教義と家族愛のパラダイムに縛られ、その裏側では種の保存の本能にも従うというジレンマから一歩も抜け出せないまま、ドタバタ喜劇を繰り広げる。役者陣は皆大熱演で、映画の世界にスッと入り込める。
 パオロとイザベラの睦事の描写が素晴らしい。時を経て再開した従兄妹同士が一日で急接近する。まるで思春期の男女のように相手を見つめ、互いの吐息を吸い込む。物語の舞台である風光明媚なイスキア島の映像はとても美しく、料理はどれもこれも美味しそうなものばかりだ。なんだかんだ言っても、イタリア人は人生を楽しむ天才なのだ。
 金婚式の主役であるはずの家の主人が最後に言い放つ言葉は強烈で、全員が冷水を浴びたようになる。イタリア人は必ずしも全員が家族主義ではないということだ。登場人物の価値観と立ち位置の違いによってそれぞれの関係性に位置エネルギーが生じていて、それが物語を推し進めるダイナミズムとなっている。カトリック教徒である手前、家族愛を取り繕うがすぐに綻びが出てしまう。なかなかに一筋縄ではいかない作品で、その人間喜劇を傍から眺めている分には笑えるが、当事者には間違ってもなりたくない。
 嵐のような家族たちが去ったイスキア島は漸く静かさを取り戻すが、一抹の淋しさがある。夫婦水入らずもいいが、ときどきは家族の喧騒も楽しい。集まれば泥臭いドラマになるとしてもだ。「家族はみんな絶好調」とでも訳すべき本作品のタイトルが、清濁合わせて人間そのものを肯定する力強い世界観を示している。ある意味大したものである。


映画「いちごの唄」

2019年07月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「いちごの唄」を観た。
 http://ichigonouta.com/

 主演の古舘佑太郎の演技は好みの分かれるところだ。家族との会話の雰囲気からして、主人公は何らかの心的障害を持っていることがわかる。言語障害も知的障害もなさそうだからアスペルガーだろうか。アスペルガー症候群の人と接したことがないのでどんな振る舞いをするのかよくわからないし、人によって症状の違いもあるだろうから、本作品の演技がよかったのかどうか判断しづらい。
 心的障害に加えて、友人をなくしたことのPTSDもあるだろうから、敢えてふたつも重ねなくてもよかったのではないか。主人公をアスペルガーに設定したためにハイテンションが持続する演技になったのだろうが、PTSDを石橋静河演じる相手役のあーちゃんだけに背負わせる演出はいかがなものかと思う。

 しかし中盤のボランティア活動では、コウタは複雑でその場での判断を求められる作業を上手くこなしていたから、心的障害は当方の勘違いかと思った。ところが東京に戻ると再び非常識な振る舞いをする。演出とプロットの都合で心的障害を利用しているみたいな感じがした。
 本作品の見どころはあーちゃんの告白の場面で、石橋靜河が語る長い台詞がとてもいい。長い間抱え続けてきた心の闇を、涙とともに流したように思えた。このシーンの演技は素晴らしい。それと宮本信子とのカフェのシーン。これであーちゃんは救われたと思った。いいシーンはこのふたつだ。

 振り返ればこの映画はあーちゃんの再生物語で、コウタは言わば狂言回しである。そう考えると納得がいくが、今の時代にこういうありふれた作品を作ることの意義には疑問がある。主人公の人物設定がブレるご都合主義には商売のニオイこそすれ、是が非でもこの作品を作りたいというモチベーションは感じられなかった。


コンサート「わが麗しき歌物語 Vol.2 〜岩谷時子とクミコの歌たち〜」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 六本木のEXTHEATERのクミコのコンサート「わが麗しき歌物語 Vol.2 〜岩谷時子とクミコの歌たち〜」に行ってきた。
 今回も覚和歌子さん作詞Barbara作曲の「わが麗しき恋物語」を披露してくれたが、いつもの調子ではなかった。聞くたびに泣ける歌だったのに、今回は泣けなかったからだ。クミコの喉が衰えるとは思わないので、風邪を引いたのかもしれない。
 しかし舞台に覚和歌子さんがゲストで登場するなど、いつも通りの舞台になった。覚和歌子さんは、他にも木村弓が歌った「いつも何度でも」の作詞家としても有名だ。主題歌に採用された映画「千と千尋の神隠し」は大ヒットした。
 相変わらず観客の殆どは年配女性である。日本のシャンソンは越路吹雪や岸洋子以来の根強いファンが支えているのだろうが、ファンも歳を取る。若い人にも訴えるシャンソンのあり方が模索される時代であるが、一方でエディット・ピアフやダミアは根強い人気がある。クラシック音楽並みの人気だと考えていい。
 クラシックが好きな若い人が多いように、シャンソン好きな若い人がたくさんいるであろうことを願う。シャンソンのには人生があると思う。


映画「COLD WAR あの歌、2つの心」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「COLD WAR あの歌、2つの心」を観た。
 https://coldwar-movie.jp/

 恋愛はいつの世も相手に対する性欲と相手を受け入れる寛容さと相手に受け入れられる充足感の相乗効果だが、それをストレートに表現するのは意外に難しい。エディット・ピアフのシャンソン「Hymne a l’amour」は恋愛の究極の形を表現した歌である。二人でいられるなら地球もいらない、自分の命さえいらないという鮮烈な歌詞だ。そして本作品のズーラとヴィクトルはまさにそれを地で行く。既存の価値観にとらわれない愛は、相手に嘘をつく必要がない。相手に男ができても女ができても結婚しても、そんなことは関係がない。世界の果てまで一緒にいるのだ。
 庶民ができない大胆で勇気のある生き方をする登場人物。まさに映画の醍醐味である。白黒の作品だから尚更そう感じるのかもしれないが、兎に角役者の演技が抜群に上手い。ズーラを演じたヨアンナ・クーリグは歌もうまいし、小柄で胸の大きな男好きのする体はこの作品にぴったりだ。対して長身痩躯のトマシュ・コットはクーリグの5歳上で実年齢的にもちょうどいいカップルである。このふたりはキスをしてもセックスをしても、ふたりでただ歩いているだけでも、何をしても絵になる。

 東西の冷戦はヨーロッパ、特に東側の諸国にとっては苛酷な生活を強いられる時代であったと思う。1980年にソ連からヨーロッパを旅行した人の話では、東側は貧しくてホテルの設備は酷いし、食べ物も全部不味かったそうだ。そして西ドイツに入ってビールを飲んでソーセージを食べたときには、はからずも資本主義バンザイと思ってしまったらしい。
 能力に応じて労働し、必要に応じて消費する共産主義の理念はいいが、権力者の腐敗によって再配分が機能していなかったのだ。1980年当時でもそうだったのだから、本作品の主人公たちが生きた1950年代は更に厳しかったと思われる。
 冷戦は経済的な格差の他に、文化的な格差も生んでいる。共産主義は日本の戦前の軍国主義と同じ全体主義のひとつで、国家の価値観によって国民の活動を束縛するものであるから、多様な価値観を許さない一元論になる。必然的に指導者の権威と権力が絶対的なものとされてしまい、あらゆる芸術は行く手を阻まれて花を咲かさない。勿論庶民の生活は限定され不自由になる。
 しかし主人公たちはそんなことを物ともせず、ただ愛だけを貫く。ふたりの愛が時間の経過にも少しも冷めないのは、どの別れも互いの意志ではなく、時代に引き裂かれた別れだったからだろう。引き離されるほど恋い焦がれるのだ。出会いと別れを繰り返すふたりはそのたびに愛が深くなっているように見えた。

 本作品で歌われる歌は、日本語の訳詞♫りんごの花綻び川面に霞立ち♫ではじまる「カチューシャ」以外は聞いたことがなかったが、どの歌もスラブ調の美しくも物悲しい歌だった。音楽家同士のラブストーリーに相応しく、当時の歌や演奏がそこかしこに鏤められていて、夢心地のような時間を過ごすことができた。珠玉の名作だと思う。


映画「X-MEN Dark phoenix」

2019年07月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「X-MEN Dark phoenix」を観た。
 http://www.foxmovies-jp.com/darkphoenix/

 X−MENシリーズは何本か観た。特によかったのは2年前の「LOGAN ローガン」で、ヒュー・ジャックマンが自身のレーゾンデートルに悩みながら闘うX−MENを上手に演じていた。
 主人公ジーン・グレイは本作品で初めて見た。そのせいか、グループの中での立ち位置や性格、テレキネシスの能力がどれほどのものなのかなどが不明のままだったのでいまひとつピンと来なかった。この感覚は最後まで続いた。もしかしたら前作の「アポカリプス」を見ていればすんなり受け入れられたのかもしれないが、映画は一作ずつで完成しているべきだと思う。
 ハリウッドの商業主義の作品の中には続編ありきで製作されたと思しきものがある。逆に前作の鑑賞ありきで製作されるものもあるだろう。本作品はまさにそれではないだろうか。
 前後作と無関係に本作だけを見ても、いろいろな齟齬がある。まずジーン・グレイの性格に整合性がない。子供の頃に両親の死に対してさえ冷めていた女の子が再開した父親の部屋に自分の写真がないと激昂するだろうか。本作の悲劇の最大の原因が主人公の性格にあるはずなのに、その性格が一定しないのではご都合主義の誹りは免れないだろう。
 ニコラス・ホルトとジェニファー・ローレンスのロマンスには華がない上に、互いに対してアバタもエクボのおおらかさがない。I love you と何度言わせても二人の間に親密さを感じないし、そもそも I love you は恋愛関係でなくとも使う言葉だ。このあたりの演出がとても安易だと思う。
 総じて作品としての出来がよろしくない。群像劇の中でひとりにフィーチャーした物語を作るには、短時間でひとりひとりの個性を表現すると同時に互いの関係性も明らかにしなければならない。そうでないとプロットがぼやけるのだ。CGに莫大な金額を費やした映画にもかかわらず、なんだか大掛かりな学芸会の芝居を見せられた気分である。


映画「ペトラは静かに対峙する」

2019年07月06日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ペトラは静かに対峙する」を観た。
 http://www.senlis.co.jp/petra/

 一筋縄ではいかない映画である。タイトルからして、スペインの家族の物語が淡々と映されるのかと思っていたが、まったく違っていた。映画の紹介ページに書かれていたとおり、最初に起こる事件は家政婦の自殺だが、映画を見ている限りまさかこの人がという人が自殺する。
 そこから先はこの映画では何が起きるか解らないと身構えて観ることになる。そして確かにいろいろなことが起きる。しかし事件の瞬間やその後の愁嘆場のシーンは殆どない。必ずいくばくかの時間が経過したシーンにジャンプする。そしてそのシーンではペトラは起きたことを静かに受け止めて次に進んでいく。

 強すぎる自意識は得てして悲劇を生む。本作品のジャウメのように強気な人間なら尚更だ。何事も自分が世界の中心でなければ気が済まないから、他人を信じないし、他人の成功や幸福が許せない。こういうタイプは珍しくなくそこら中にいる。ある飲食チェーンの創業社長は、社員のひとりが料理長のことを「大将」と呼んだことに激怒して、その社員をボコボコにした。自分以外に「大将」がいるのが許せないらしい。文字通りお山の大将である。社員の全員がこの社長を軽蔑していたが、身の振り方は三通りに分かれていた。呆れて辞めていく者、給料と同僚のために我慢して残る者、そして社長に取り入って得しようとするイエスマンたちである。社長はいつもイエスマンに囲まれて悦に入っていた。その会社はいまでも、長時間労働と薄給に耐えて頑張る社員たちの犠牲の上に成り立っている。
 日本では大金を手にしている体制側の人間は殆どこのタイプだ。言うなれば世の中は自意識過剰の人格破綻者によって支配されているということである。暗愚の宰相アベはその筆頭だ。他人の成功や幸福が許せない総理大臣をいただいた国民ほど不幸な国民はない。

 それでもまともに生きていく人はいる。主人公ペトラである。度重なる死を受け入れ、自暴自棄にもならず、インセストの問題も克服して、母から受け継いだ命を母と同じ名前(?)の娘に繋いでいく。生命のリレーはいつも女たちに委ねられるのだ。
 物語の描き方はユニークである。モザイクのようなシーンを嵌めていくと、全体像が浮かび上がる。観客はその作業のために頭が休まる暇がない。ペトラの絵はジャウメによって息の根を止められるが、ペトラの人格にまでは影響を与えられない。ジャウメの苛立ちはペトラに対する不快感でもあっただろう。
 人格破綻者のジャウメは周囲の人々の人格を蹂躙し、まともな男たちは弱くて、悲劇の犠牲者となる。一方で女たちは彼を鳥瞰するかのように、はるかな高みから見下ろす。人間の不条理をこれでもかと見せ続ける作品だが、女たちの強さの物語でもある。不思議に暗い気持ちにならないのはカタルシスの効果でもあるが、子宮に包まれているかのような懐の深い世界観のせいでもあるだろう。奥行きのあるいい作品である。


映画「The Glass Castle」(邦題「ガラスの城の約束」)

2019年07月04日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「The Glass Castle」(邦題「ガラスの城の約束」)を観た。
 https://www.phantom-film.com/garasunoshiro/

 ブリー・ラーソンは「Room」と「キャプテン・マーベル」と本作品で観た。17歳から7年間に亘ってひとつの部屋に監禁され続けた女性、宇宙から来た無敵のヒーロー、そして理不尽な父親に幼年期から青年期に亘ってスポイルされ続けた本作品の主人公ジャネット・ウォールズと、シチュエーションもキャラクター設定も異なる3人のヒロインだが、何か共通した部分を感じる。
 それは負けん気の強さというか、状況に負けない芯の頑丈さみたいなものである。骨太の女性とでも言えばいいのか、兎に角大抵のことにはへこたれそうにない印象がある。勿論ブリー・ラーソン自身の容貌や性格に起因するとは思うが、もしかしたらアメリカ人女性は皆、多かれ少なかれ芯が強いのかもしれない。いや、考えてみれば日本人女性だって弱くはない。思い返せば生まれてこの方、弱い女性にお目にかかったことがない(笑)。ということはブリー・ラーソンは女性の強さ逞しさを表現することに長けた女優ということになる。まあそうだろう。世の中に弱い女性などいないのだ。
 ウッディ・ハレルソン演じる父親レックスは、被害妄想で独りよがりで無責任なアル中男である。演技がとんでもなくリアルで、あまりの酷い男ぶりに映画の前半は吐き気がしたほどである。ほとんどクズみたいなこの父親を、家族はどうしても捨てられない。その理由がエンディング近くまでわからなかった。
 レックスの母親はインディアン風の容貌でレックスに輪をかけたようなクズ人間である。気に入らないことがあると初対面の無抵抗な孫も平気で殴る。悪い悪戯もしようとする。そのシーンを見てなるほどと思った。
 幼い頃のレックスも母親から酷い仕打ちを受け続けたに違いない。おかげで大人になっても世の中がすべて人ばかりだと思い込んでいる。世の中を憎んでいると言ってもいい。世の中の価値観を否定し、自分の価値観だけで子供を育て家族に対峙する。しかしときに「ウォールズ家の人間は〜」などと封建的な価値観を使い分けたりする。主張は行き当たりばったりで思想として体系化されていないから整合性がない。要するにご都合主義である。

 殴られて育った子供は、人を殴る人間に育つという。暴力に対する歯止めがないからだ。レックスも当然そういう人間である。しかし映画ではレックスが家族を殴るシーンは一度もなかった。
 レックスにとって実家の思い出は辛く苦しいことばかりだ。だから過去を全力で否定する。中でも自分が受け続けた暴力はいの一番に否定する。そして自分の家族には絶対に暴力を振るわない。そのように心に決めたのではないだろうか。本来は暴力を振るう筈のメンタリティの持ち主が暴力を振るわないのは並大抵の努力ではない。レックスは家族に対してだけは暴力の衝動を押さえ込んでいたのである。
 自分自身に内在する軋轢に耐えきれず、一方ではアルコールに溺れ、一方ではガラスの家の夢を語る。レックスには両方ともなくてはならない歯止めだった。そしてそのあたりを漠然と理解していたから、家族は荒くれ男のレックスの心の奥底にある優しさを感じ、彼を決して見捨てなかった。
 弱ってベッドに横たわっているレックスを見るジャネットの慈愛に満ちた表情がすべてを物語る。家族第一主義ではない日本ではなかなか理解され難い作品かもしれないが、こんなふうに生きた男がいたということを力強く肯定する世界観は立派である。矛盾に満ちた自己の精神世界を彷徨い続けてきたレックスの孤独な魂は、愛する娘の慈悲の光に包まれて漸くやすらぎを得たのかもしれない。


映画「新聞記者」

2019年07月02日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「新聞記者」を観た。
 https://shimbunkisha.jp/

 松坂桃李が出演する映画は去年は3本観た。今年は本作品で2本めだ。俳優として驚くような演技や所謂怪演と呼ばれるような演技をするタイプではないが、役をよく消化したリアルな演技をする。線の細さというか存在の薄さがこの人の持ち味である。本作品のエリート官僚の役はまさにこの人にぴったりであった。

 参院選の前にこの映画がよく公開できたと思う。誰が観ても安倍政権の不祥事を取り上げていることは明らかで、内閣情報調査室を主体とする内閣府が暗躍して政府の悪事を隠しているという内容だからである。サイドシーンとも言うべきインターネットの対談で、前文科省事務次官の前川喜平さんが現政権の内実を赤裸々に語り、東京新聞記者の望月衣塑子さんがマスコミとジャーナリストの役割について述べている。ふたりとも安倍政権とは対立的な立場にある。

 物語は主人公である女性新聞記者の行動と見方を中心に、カウンターパートとしての内調官僚の松坂桃李が先輩の死を受けてどのように行動するのかを描く。シム・ウンギョンの演じた吉岡エリカは追いかけている内閣官房の関わった不正事件の記事を書こうとするが、国家権力の圧力は勤務先の東都新聞にも襲いかかってくる。松坂桃李が演じた杉原の、官僚としての本来の役割と現実とのギャップに悩み、家族と生活を守ることと不正に手を染めることの軋轢に悩む役は、仕事と割り切って唯々諾々と作業に勤しむ官僚たちの中で浮いている。どうやら日本では人間らしさと官僚らしさは両立しないらしい。
 主人公も杉原も、どちらの立場も問われるのは勇気である。

 世の中に自分の考えを主張するには何らかの代償が生じる可能性を常に覚悟しなければならない。社内の不正を告発すれば馘になるかもしれないし、いじめを明らかにすれば次は自分がいじめられるかもしれない。だから多くの人は口を噤む。そしてストレスを溜め込む。中には弱い人、或いは弱い立場の人を相手に毒づく人間もいる。そして誰がいつそんな人間に成り下がらないとも限らない。もちろん自分も例外ではない。
 しかし新聞記者は主張することが仕事である。客観的な事実だけを書いているように見える記事でも、見方によって事実は異なるから、行間には記者の主張が現れる。「客観的な事実」などというものは実は幻想に過ぎないのだ。新聞記者はそれを肝に銘じて文章を書く。文章には書いた人の世界観や人間性が反映されるから、記事は一定の主張を持ち、そして一定の社会的影響力を持つ。マスコミが第4の権力と言われる所以である。
 反体制的な記者が記事を書けば、どうしても反体制的な文章になり現政権を批判する内容になる。民主的な政権は多様性に対して寛容だから批判も受け入れるが、独裁的な政権は反体制的な人々を排除しようとする。そのやり方は巧妙で狡猾だ。情報をどのように操作すれば世論がどっちに動くかを分かっている。新聞記者の社会的な信用を失墜させることなど朝飯前だ。新聞記者はそんな権力に対して、ペン1本で対抗しなければならない。言葉が封じられない限りはどこまでも伝えていく。殺されてもいいという覚悟は既にできている。
 しかし日本のジャーナリストは本当にその覚悟が出来ているのだろうか。国境なき記者団によるWorld Press Freedom Index(世界報道自由度ランキング)によれば日本の報道の自由度は世界で67位である。特定秘密保護法をはじめとする政権によるマスコミの抑圧や情報規制は徐々に顕著になってきており、ランキングはもっと下がっていくだろう。それでもいまはまだ言いたいことが言える世の中である。にもかかわらず新聞社やジャーナリストが自主規制を始めたら、そのときは言論の自由はおしまいである。そして日本の言論の自由はおしまいになりつつあると思う。

 内閣情報調査室長を演じた田中哲司の演技にはリアリティがあった。この人は同じ藤井道人監督の「デイアンドナイト」では大企業側の悪役を演じていて、巨大な力の窓口としての人間がどのような精神状態であるのかをうまく表現していたが、本作では権力の走狗としての歪んだ人間性を好演。こういった役が似合うのだろう。
 主人公の日韓ハーフの帰国子女を演じたシム・ウンギョンはそれなりに頑張っていたが、やや表情に乏しい。本田翼の演技力は松坂桃李の妻役がせいぜいだが、日本には黒木華や安藤サクラ、貫地谷しほり、池脇千鶴など、演技力に長けた女優がたくさんいる。新聞記者としての情熱と覚悟に加えて女性ならではの優しさを表現できる女優が主人公を演じたら、もうワンランク上の作品になった気がする。
 とはいえこの時期にこの作品を製作したことにはあらためて拍手を送りたい。いまや言論の自由を守るのはジャーナリストではなく映画人なのかもしれない。藤井道人監督は前作「デイアンドナイト」に引き続いてスケールの大きな作品を作り得たと思う。見事である。


映画「ザ・ファブル」

2019年07月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「ザ・ファブル」を観た。
 http://the-fable-movie.jp/

 岡田准一はTV番組で「少年オカダ」として子どもたちを応援するために様々なチャレンジをしていた。その頃から運動神経が抜群だった記憶がある。アクション俳優になったのは必然でもあっただろう。
 本作品では岡田准一のアクションが十分に楽しめる。キーワードは「普通」という言葉で、どう考えても普通じゃない殺し屋の人生を歩んできた主人公が一年間の「普通」の生活をしてみる話である。しかしボスも殺し屋だから堅気の人脈がなく、必然的に裏社会に頼むことになる。殺し屋とヤクザ。舞台装置が揃いすぎて、とても「普通」の生活を送れそうにない中で登場するのがヤクザとは無関係の堅気である山本美月と佐藤二朗である。殺し屋とヤクザと一般人。三者が揃った上に、ヤクザの組織内抗争もあって、物語は立体的に進んでいく。福士蒼汰絡みのサブストーリーも物語に厚みを与えている。
 クライマックスの戦闘は条件に制約されつつも圧倒的な強さが発揮されてスカッとする。予告編にあった通り佐藤二朗の会社で意外な才能を見せる主人公。将来はそれほど暗くはなさそうだ。殺し屋の映画の割にほのぼのする、楽しい作品である。