三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「劇場版岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族」

2021年01月12日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「劇場版岩合光昭の世界ネコ歩き あるがままに、水と大地のネコ家族」を観た。
 猫を見ると無条件に愛くるしく感じるのはどうしてなのか考えたことがある。愛情ホルモンと呼ばれるオキシトシンのはたらきなのかもしれないが、ならば他の動物でも同じように感じてもおかしくない筈だ。しかしドーベルマンやキリンや象には、猫と同じような愛くるしさを感じることはない。アロワナという魚が動物の中で一番可愛いという人がいるくらいだから、感じ方は人それぞれだが、猫には最大公約数的な可愛さ、つまり人類の多くが可愛いと感じる何かがある。自由、気まぐれ、爪を立てるときもあればすり寄ってくるときもあったりと、既に多くの人が猫について語っている。そのこと自体が、猫が多くの人に愛されている証拠でもあるのだろう。
 2008年に秋元順子が歌ってヒットした花岡優平作詞作曲の「愛のままで」という歌がある。この歌の2番に「ああ生きてる意味を求めたりしない」という歌詞がある。人間は生きている意味を求めるから不幸になるのであって、そんなものを考えたりしないことが幸せ、とまでは言わないが、少なくとも不幸ではない。いずれは死にゆく運命だが、それを嘆いたりしない。現在と過去と未来の三世を考えるのが人間で、今生きている現在しかない存在に、人は癒やされる。花は散っていくことを知らないまま美しく咲く。
 猫も花と同じように歳を取れば死んでいく。あるいは猫風邪で幼くして死ぬ。すべての生命はエントロピーの増大は不可逆であるという熱力学第二法則に逆らえない。現在は生きていても、いずれは死ぬ。しかし言い方を変えれば、いずれ死ぬのだが、現在は生きていると言うことも出来る。猫はそういう存在で、しかも人間に最も近しい動物だ。生命を愛おしむ気持ちが人類に共通するとすれば、猫が可愛いのは当たり前の話なのである。
 本作品は猫の自由闊達な日常を時の流れとともに見せる。岩合カメラマンの猫に対する愛情がこれでもかと伝わってくると同時に、生命とはかくも美しく時間を彩るものかと感嘆する。たしかに映像の向こうに死の影がちらちらと見える。それでも現在を生きて命を燃やす猫たちの躍動するエネルギーを見ると、どこまでもどこまでも癒やされる。ときには厳しい状況に置かれることもあるが、猫は人間と違って、境涯を嘆いたり運命を呪ったりすることはない。ただ、現在(いま)を生きる。それだけでいいのだ。
 ほっこりとした気持ちになれる優しい作品だった。

映画「大コメ騒動」

2021年01月10日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「大コメ騒動」を観た。
「色の白いは七難隠す」という諺がある。それだけ色白の女性は美しく見えるという訳だ。しかし本作品の女優陣は、日焼け顔のスッピン風のメイクで登場する。女性が美しく見えないメイクである。引き受けた女優さんたちの覚悟にまず脱帽だ。最初のほうでは、予告編で見ていた井上真央以外は誰が誰なのか判らなかった。その後夏木マリは地顔がきれいなので早めに分かったが、鈴木砂羽はしばらく判らなかった。
 井上真央は好演だったが、開き直った女優陣の振り切った演技に支えられた部分も多かったと思う。特に室井滋が演じたおばばは、妖怪的な迫力で強気な浜の女たちをまとめる。井上真央が演じたいとさんは、頭はいいが気が弱い。おばばに引っ張られているうちに、次第にリーダーシップとは何かを学んでいく。
 本作品の舞台となった1918年は、1914年にはじまった第一次世界大戦が11月に終結する年で、その前年の1917年にはロシア革命(二月革命)でロマノフ王朝が倒されている。しかし十月革命で臨時政府が倒されると、戦争をやっている場合ではないということでロシアは第一次大戦から離脱する。共産主義を嫌っていたイギリスはロシアの弱体化を突こうとして、1918年、同盟国であった日本にシベリア出兵を要請する。大隈重信の後を受けて総理大臣となっていた寺内正毅は、イギリスの要請を断りきれず、8月2日にシベリア出兵を決めてしまった。その翌日の8月3日に起きたのが、本作品で扱われた富山の米騒動である。
 何故そんなに早く米騒動が起きたかということ、機を見るに敏な商人たちがシベリア出兵を見越して、随分前から米を買い占めるなどしていたため、米の値段が急騰していたのだ。折しも鉄道が開通して、浜の女たちの主な収入であった艀の仕事が激減していたこともあり、賃金が減る、米の値段が上がる、亭主は戦争や長期の漁で不在というトリプルパンチで女たちは生活苦に追い込まれていた。米騒動はそんな女たちの止むに止まれぬ行動だったのである。病弱だった寺内正毅は責任を取って内閣総理大臣を辞任した。
 本作品では識字率の低かった当時、学校での成績がよかったいとさんが新聞でシベリア出兵が決まったというニュースを読んで、危機感でいっぱいになった女たちが行動を起こすというシナリオになっているが、当時の新聞が前日の出来事を翌日に伝えられるほど通信や交通は整っていなかったと思う。
 女たちが実際にやったことは、艀での米の積み込み阻止や役所や米問屋に大勢で行って掛け合うという、比較的おとなしめの行動である。しかし似たような行動が全国で起きたものだから、寺内内閣が退陣するまでの影響力を持つに至ったのである。
 明日はどうなるかわからない。ただ今夜の米がほしい。そういう切実な状況だったことがわかる。米の値段が上がるのは国家による構造的な問題であることはなんとなく察することが出来たから、今夜も米問屋にみんなで押し掛けるのだが、中には米問屋から懐柔されている女もいた。必ずしも女たち全員が一枚岩でなかったという設定はリアリティがあってなかなかよかった。
 庶民は軍隊ではない。いろいろな事情があって、遅刻もすれば欠勤もする。権力者や有力者に対する抗議は、ゆるくていいのだ。不満や主張があれば、それを表明することが大事なのである。後ろ指をさされたり村八分にされることもあるかもしれない。それでも意見を言い続けるのだ。いつ権力によって言論の自由が侵害されないとも限らない。そうならないように言論し続ける。富山の女たちが勇気を出して集まったように、個人として意見表明を続けるのも、ひとつの勇気である。元気づけられる作品だった。

映画「BOLT」

2021年01月06日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「BOLT」を観た。
 映画「Fukushima50」では、東日本大震災とその後の津波で壊れ果てた原子力発電所で、なんとか被害の拡大を防ごうと、所長や所員たちが空しく奮闘する様子を描き出していた。
 本作品では、事故の初期対応でボルトを締めればなんとかなると思って奮闘した所員たちが、努力も虚しく原子炉の溶解に至った現実に、為す術もなく無力を思い知らされる経緯が、強烈な光とともに描かれる。そして原子炉に近づけなくなるほど被曝したひとりの所員のその後を追う。
 妻は死んだ。たったひとりの家族だった。虚しさを埋めるように被曝地に近い場所で死んだ人の家の片付けをする。家族を失って親戚も死んで、たったひとり、希望もなく生きて、そして死んだ人だ。その人の家を片付けて処分する仕事である。誰もやりたがらない仕事だからギャラはいい。しかし思うのだ。自分とあの死んだ老人は何が違うのだろうか。タイミングが違ったら立場が逆になっていてもおかしくない。生きている自分と、死んだ老人。
 それでも生きていく。生きていく以外に自分にできることはない。原発の真ん中にいたのに不思議に永らえた命だ。死ぬ選択もあるし、多分すぐに実行できる。しかし死なずに生きていくのだ。妻の面影は自分の中でずっと生き続けている。自分の面影は妻の中で生き続けているのだろうか。優しい妻は話しかける。あなたのことは忘れない。
 永瀬正敏はうまい。人間の不幸のすべてを背負って生きているような悲壮感がある。実際に原発事故の現場にいた東京電力の所員は、責任感と罪悪感の間(はざま)で苦しんでいただろうし、いまも苦しんでいる人もいると思う。現場の状況を知らない経営陣との実感の乖離は相当なものだっただろう。すぐに現場に行った菅直人はそれなりに頑張ったと思うが、本人は自分の力不足、準備不足を認めていた。
 福島原発に10m以上の津波が来たらどうするのかについての国会質問が、2006年に共産党の吉井英勝議員から出されている。当時の総理大臣はアベシンゾウ。アベはそんな事態は考えられないと一蹴し、役人が作成した「今後とも原子力の安全確保に万全を期してまいりたい」という紋切り型の答弁を繰り返した。総理大臣に国民の安全を守るための無作為は許されない。福島原発事故について本当に罪があるのは誰か明らかである。しかし実際には現場の人間や事故当時の内閣が責められた。理不尽な話である。アベシンゾウの口癖は「悪夢の民主党政権」だ。しかし本当の悪夢の政権の総理が誰なのか、今となっては誰にも判る。
 改めて、戦争や原発事故は語り継がねばならないと思った。被害を風化させると、また悪徳な人間が戦争を始めたり原発を造ったりしかねない。本作品は変化球ではあったが、あの現場にいた人間の苦しみを十分に伝えてくれた。その意義は大きいと思う。

映画「新感染半島 ファイナル・ステージ」

2021年01月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「新感染半島 ファイナル・ステージ」を観た。
 ビデオゲームのバイオハザードに似た作品である。バイオハザードが、アンブレラという巨大な製薬会社が生物兵器開発の人体実験のために作ったウィルスが流出してゾンビが大量発生してしまったという設定であるのに対し、本作品はゾンビ発生の原因が曖昧である。理由も発生源も不明のウィルスが蔓延してゾンビが大量発生している状況からストーリーがはじまる。
 元軍人という主人公の設定は、戦闘能力という点からもバイオハザードと同じにならざるを得ないのかもしれないが、もう少し工夫があってもよかった。加えて、素人の主婦がたった4年で軍人並みの戦闘能力を身につけたり、中学生くらいの少女がドリフトを駆使するA級ライセンス以上の運転技術を披露したりするのは現実的ではない。百歩譲ってその辺もありだとしても、家族に対して一般の人間と同じような感情を見せるのはどうかと思う。
 他人の死に慣れてしまった軍人は、たとえ家族が死んでも油断することはない。戦闘訓練を受けてきた人間も同じだと思う。元自衛官で様々な格闘術を受けてきた人を知っていたが、その人の視線は遠くを眺めているようでとても不気味だった。こちらを見ているように見えて、視線は外れている。視界の真ん中だけでなく上下左右からの攻撃に備えると、そういう眼付になるらしい。
 本作品の登場人物には冷酷な軍人らしい眼付が少なく、そういう意味での怖さが足りなかった気がする。他人の死に慣れてしまうと、死に心が動かされることがなくなる。家族に対しても同様だ。本作品の登場人物にはリアリティが欠けている。
 ゾンビの発生とは無関係の悪役は、脳足りんの暴走族みたいに浮薄で存在感がない。悪役に重味がなければ天秤の一方の主人公の重味もなくなる。だからだろうと思うが、本作品の主人公には人間としての奥深さがない。味方となる女性陣は儒教の国らしく封建的だ。子供は親の言いつけを守らなければならないという考え方である。愛情よりも上下関係。
 結局、登場人物の誰にも感情移入できないまま、映画が終わってしまった。アクションとカーチェイスはそこそこ面白かったが、それだけだ。今年1本目の映画は、駄作という感想に終わった。