いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

サイドカー -北京2006 ⑮-

2006年12月29日 19時28分41秒 | 中国出張/遊興/中国事情





北京でサイドカーを2回見た。

■「BS特集 民衆が語る中国・激動の時代」において、インタビューに答えていた北京の元下放青年たちは、やはり、プチブル子弟だった。 一人北京に帰れず、田舎に今でもいる人がインタビューに答えていたが。 つまり、"民衆"が語る中国・激動の時代の民衆という表現はあまり適切ではない。

特に、北京でインタビューに答えていた人は、周恩来死後の天安門事件の自分で撮った写真を見せていた。 当時写真機を持っていること、そしてそういう騒動において記録を撮ろうとする神経は、あんまり"民衆"っぽくない。 やっぱり、北京のプチブル子弟なのだ。 実は、プチではなく、純ブルの資産家の孫という説明書きの御婦人もいた。元海運会社理事ということだったが、見た目が10歳は若かった。

周恩来が死んだ時の民衆の模様の映像では、本当にみんな衝撃を受けていた。そして、インタビューに答える人の、周恩来の死の時の、悲しい気持ちの回顧が実感がこもっていた。周恩来は自分で弁明しなかったが民衆には暴皇帝に仕える賢宰相と認識されていたのだろう。つまり、(今変に日本で流行っている?言葉でいえば)惻隠の情が民衆に浸透していたのだろう。

こういう雰囲気は日本の皇帝崩御での民衆の雰囲気と少なからず似ていて、ひろひとさんへの惻隠の情が民衆に浸透していたのだろうと思う。