何がヘイトスピーチかで議論になっているのに、それを規制するのは言論の自由への挑戦にほかならない。それこそフランス革命以来、体制の変革にあたっては憎悪を駆り立てる表現はあたりまえのことであり、それを論じることは、反革命の烙印を押されたのではないだろうか。自民党が議員立法による法律での規制を考えているようだが、目的は規制の難しさを世間に知らしめることだろう。間違っても行動する保守に言いがかりをつけてはならない。孤立を強いられながらも、ここまで日本が国家としての意思を明確にできるようになったのは、行動する保守の街頭やネットを通じての戦いがあったからだ。今では彼らも極端なことは口にしなくなった。あくまでも常識の範囲内で、法律に乗っ取って自らの主張をしているのである。当初はやり過ぎの面もあったとしても、常識的な線を越えることはなくなった。かえってそれに敵対する勢力の方が、暴力を振るったりで警察の世話になっている。日本でのヘイトスピーチは、在日の人たちに向けられる言葉として取り上げられている。しかし、規制することで韓国や在日の人たちに物を申せなくなるようでは、本末転倒ではないだろうか。とくに、ありもしないデマを国際的に振り撒く国家に対して、傍観することはもはや許されないのである。サヨクが音頭を取ってヘイトスピーチを問題視する前に、先手を打ったのだと思う。安倍首相は思慮深く決断しなくてはならない。敵と味方をきちんと区別しなくてはならない。難しい舵取りであることは確かだが、そこは腕の見せどころである。捨て石となって国に殉じようとしている者たちを、断じて裏切ってはならないのである。
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