草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

悪魔と手を握っても政治家自らが悪魔になってはならない!

2016年01月27日 | 思想家

政治をきれいごとで語るべきではない。マックス・ウェーバーも述べているように「道徳的にいかがわしい手段」を不可欠とするからである。リアリストとしての福田恆存はデモクラシーの本質を見抜いていた。力の行使は民主主義社会でも前提であり、とくに危機的な状況下では多数決が全てではないのである▼福田は「相対的な世界では、社会が個人を、あるいは個人が社会を、肯定したり否定したりする梃子の支点は見いだせません。結局、相手を承服させるには、権力、武力、多数決、それしかない。私たちは、そのばあひ前二者によるのをファシズムと考へ、後者によるのをデモクラシーと考へてゐますが、まつたくたわいないことです。そんなものではない。西欧デモクラシーの社会はその三つを自由に操ります」(「個人と社会」)と書いている▼同時に権力や武力の行使にあたっては、政治家個人が決断を迫られるのである。悪魔と手を握ることはあっても、自らが悪魔になることは拒否しなくてはならない。その覚悟がなければ政治家にはなるべきではない。このことについても福田は言及している▼最近になってよく口にされるのが、第二次世界大戦の前夜と似ているということだ。オバマ、プーチン、習近平といった世界の指導者がその鍵を握っている。間違っても悪魔になってはならないのである。キューバ危機のときには米ソ両超大国がそれなりに自制した。それができるかどうかで世界の未来が変わってくるのである。

  

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